「『縮図』は未完成のまま、父の最後の作品となってしまった。まだ二つ書きたいものがあると言ってゐた父は、『縮図』だけでも完成させて置き度いと、時折口にしてゐた。『縮図』を新聞に連載したのは、父が七十一歳の夏のことで、恰度米英との戦端が開かれる少し前であり、緊迫せる雰囲氣の中にあって、この都会の一隅に、暑さに脂汗を拭ひつつ、毎日一囘づつ書き綴つていつてゐた。仕事に打ち込んだ疲労と緊張の影の深い老作家の姿が、今でも私の目の前にあるやうだ。
『縮図』を都新聞(今の東京新聞)に書き出す時に、父は作者の言葉として、次ぎのやうに書いてゐる。昭和十一年の春この新聞に書きはじめ二十七八回で病に倒れ執筆を中絶してから既に六年になる。未曾有の事變の展開と共に世態も變わつたが、わたしも老いた。──この頃になると情勢の推移と共に人心に落著が出来、慌しかつた前年から見ると、總てが本腰になつて来たやうである。此の時新しい文學の方向を見出すことも出来ないでゐる私が物を書くことも何かと思ふが、都新聞の作品への註文が、商賣意識を離れた芸術本位なものなので、わたしも多少の感激があり、時代の許す範囲で自由に書きたいと思ふ。ただこの作品が、それに値ひするものであるか否かが、疑問であるが、できるだけ期待に副ふやうに私なりに揮ひたいと思ふ。
昭和十六年六月二十八日の紙上から連載し始めた『縮図』は、九月十五日の新聞に載った八十囘が最後で、或る事情のため中断されることとなった。」(徳田一穂「跋」〔『縮図』小山書店、昭和22年〕)より抜粋。
「一周忌が済むと、旬日ならずして、帝都には焼夷弾が落されていた。空襲は日増しに激しさを加へ、『縮図』は印刷された本文及び新聞連載の時の内田巌氏の數葉の挿畫(※キャプションに★をつけたのが単行本に掲載された挿絵)、表紙、紙型と何囘かにわたつて總てを焼失されていた。『縮図』の如き作品の出版は容易ではなかったのにも拘わらず、、小山書店、殊に加納氏の熱心な努力によって、極く少部数の印刷が許されたのであった。製本される寸前に灰燼に歸してしまったのだ。最後の新聞に載らなかった原稿も焼けてしまつてゐたので、小山書店の手で青森のはうへ送られてあつた見本として製本された一本から、終戦後再び版行の運びになつたのである。」(徳田一穂「追記」〔『縮図』小山書店、昭和22年〕)より抜粋。