101冊の挿絵のある本(55)…女流画家・前島ともが描いた『赤い鳥』の挿絵・カット50点と、清水良雄、鈴木淳、深沢省三、川上四郎、松山文雄、深沢紅子が描いた挿絵15点も紹介します。
「前島ともであるが、前記三人(*清水良雄、鈴木淳、深沢省三)が前期『赤い鳥』より執筆している童画家であるのにたいして、彼女は昭和四年三月号をもって休刊に入った同誌が昭和六年一月に復刊されて三号目(*復刊第1巻第3号)より登場した女流である。……明治三十七年.十二月十六日に茨城県行方郡香澄村に誕生、七歳で上京、絵を好んだので結城素明に師事、結城が女子美術学校の教師になった縁で同校を卒業。若い女性らしく童画に惹かれて清水良雄に接近し、その推薦で後期『赤い鳥』に画稿を寄せることとなったのだった。昭和十年七月号よりその姓名が〈松山とも〉と変わっているのは、彼女が、プロレタリア画家でありまたリアリズム童画家でもある松山文雄と結婚したからであった」(上笙一郎「『赤い鳥』の児童出版美術」《『赤い鳥』復刻版解説・執筆者索引》日本近代文学館、昭和54年)より。
◆前島とも『赤い鳥』との出会い
「私が『赤い鳥』を初めて見たのは、私が本郷高等小学校に入った始め頃の様に思います。前の文房具屋が雑誌類なども置いていました。縞のつつ袖に前だれをかけた小父さんが品物の中に埋もれた様に座っている端に、後ろが少し高くなった平台があって、その上に二三冊ずつ雑誌が並べてありました。……或る朝その台の上に見たこともない様な新鮮な感触を持った雑誌があったのです。白地に形のよい字で『赤い鳥』と書いた朱の色の良さ、『赤い鳥』と言う言葉のよさ、一目でほれぼれしたのでした。気のあっていたみよ子と二人で買ったのを覚えています。組の中でこんあハイカラな本を持っているのは二人だけだと随分誇らかなものでした。表紙や、さし絵は清水良雄さんでした。以前から『少女画報』などで見ていたのですが『赤い鳥』の画はなんと素晴らしかったでしょう。白い睡蓮の咲く沼からすうと立った水の精のよかった事、だきしめても足りないほどでした。清水良雄さんがその文房具やの横を入った辺りの西片町に住んでいらしたという事は、その頃夢にも知りませんでした。」(前島とも「懐かしいあの頃」、《『赤い鳥』復刻版解説・執筆者索引》日本近代文学館、昭和54年)より。
◆前島とも『赤い鳥』さし絵デビュー
「清水良雄さんに御目にかかったのは、同じ西片町の姉の家から女子美に通うようになってからでした。知人に紹介されて静閑な御庭の黄蜀葵(*トロロアオイ)の茶色に枯れて実になったのを写生させて戴いたのが始めでした。その後、幾度もお邪魔してお話しなどをきいたり、又自分も先生のようなさし画の仕事をやりたいという希望などのべたようです。
再刊された『赤い鳥』の小学生の綴方や自由詩のさしえを描きはじめたのはそれから何年か先の事でした。たしか大学を出ても職がないというひどく不景気な頃でした。下手な絵が印刷され、ハトロン紙の封筒から出てきた二十円の小為替が忘れられません。豊田正子さんなどの上手な綴方や自由詩に感心する一方、自分の画のぎこちなさを嘆きながら描き続けました、」(前島とも「懐かしいあの頃」、《『赤い鳥』復刻版解説・執筆者索引》日本近代文学館、昭和54年)より。
前島とものデビュー作品と思われる5点の挿絵・カットを紹介します。
名前に「?」がついているのは、挿絵にサインがないので挿絵画家名の特定ができないためです。ただし、『赤い鳥』復刊第1巻第3号に挿絵を寄稿している前島以外の4名の画家たちは作品にサインを残しており、それ以外の署名のない挿絵・カットが前島のものではないかと思い、一応、画家名を前島ともとしましたが、断言できないため、「?」をつけさせていただきました。
『赤い鳥』復刊第1巻第3号に掲載された前島の作品とそれ以外作品との画風の違いやサインを理解できるように、前島以外の4名の挿絵画家が描いた挿絵をそれぞれ1点ずつ紹介します。
⚫️前島とものサイン
前島ともの『赤い鳥』デビュー作にはサインを残していませんでしたが、次号以降は「maa」「ma」「m」などのサインを残している。結婚して姓が松山に変わりましたが、前島のイニシャル「m」と同じような「m」のサインを記しています。
一番多く使われていたサイン「maa」の二つ目の「a」はどのような意味があったのか? 私が知る限りでは、前島がサインについて語っているのを見ていませんし、いろいろ考えてみましたが、現時点では不明です。
⚫️以下は、前島ともが昭和6年〜11年に『赤い鳥』に描いた挿絵と、同時期、清水良雄、鈴木淳、深沢省三が『赤い鳥』に寄稿した作品を紹介します。他に、1回だけの挿絵寄稿となった深沢紅子、前島とものご主人でもある松山文雄の挿絵を紹介します。
⚫️前島 とも(まえじま とも)明治37年(1904年)~平成6年(1994年)
童画家。日本画家。茨城県生まれ。夫は、松山文雄(漫画家、童画家)。少女期に「赤い鳥」の絵を見た感激が忘れられず、特に清水良雄の絵に憧れ続ける。女子美術学校在学中は姉宅に寄宿し、同じ町内にあった清水の家を訪ねた。清水の推薦で復刊後の「赤い鳥」昭和6年3月号から挿絵を描きはじめ、自由詩と入選綴り方欄を担当し、現実をありのままに表現しようとする子どもの作品にマッチする挿絵を、登場以後最終刊まで欠かさず描いた。「コドモノクニ」などの絵雑誌でも活躍する。昭和7年松山文雄らと新ニッポン童画会を結成。戦後は奥村土牛の画塾に学び、日本画を制作した。