冩眞術の発達=殊に映畫技術の進歩によって印刷物の上に絵畫方面に影響を及ぼし、随分挿などもその減じはせぬかと云ふ氣もしたが、事實は全く反對だることは大いに面白い現象であるが、實はあまり當然すぎる程當然の事である。


即ち挿繪の方は自由直裁に無碍(むげ)な考えを端的に出して看者にぶつからせる事が出来るからである。物の説明圖なぞでも冩眞より圖のほうがよく納得出來る場合がある。たとへば今、馬や人の走っていく處の冩眞印畫を見ると、それ等が少しも馳(はしっ)て居ない、貼り付いて居る。


看者はそこに對象の活動の本態度を感受出來ない事は多く人々の徑驗する處であらう。然るに、實際は科學的眞實ではあるまい處の絵畫の場合は、實によくその馬なり人なりが走つて居る。その他風景や人物にしてからが然りである。冩眞は實はその眞實は實はその眞實の力を掴み得ない、こんな事は誰でも知悉して居る處であるが、繪というもは感情の所産物として尤も嘆賞すべき處である。即ち藝術と科學の相異が何となく分明する事であらう。


處で現在日常見る挿繪の中で時々映畫の一齣(ひとこま)をそのまゝ模した様なのにぶつかる。動く冩眞の一場面を切り取つても人間の對物印象は決してそんな處にないのであるから、かう云う事は挿繪として甚(はなはだ)不心得千萬であると思ふ。人間の持つ尊い眞實の技能としての繪を侮辱するものである。


繪と云ふものがその眞價を解されないのは困る、此の點はよく東洋畫の眞髄を考へなければならない事だ。しかも西洋風の冩眞畫と雖(いえど)も、いかにたくみなる冩眞よりも把握する力の強いかを見れば分かる事である。



斉藤五百枝:画、直木三十五「由比根元大殺記」(『名作挿画全集』第2巻、平凡社昭和10年