「『風と雲の伝説』の挿画を描く 加藤敏郎画伯 清正公末裔の気品漂う

 小林久三氏の新聞小説『風と雲の伝説』の挿画を描いている加藤敏郎氏を、東京杉並区も静閑な住宅に訪ね、絵画に志した動機などを訊いて見た。
 加藤氏の絵心を育んだのは山形県酒田市の生家にあった絵巻物や錦絵等の古典で、それらは合戦の場面であり地獄絵であり、恋物語でもあった。



加藤敏郎:画


 旧制中学一年のころ、近所に住む画家の影響をうけ、油絵の具の道具一式を歯科医であった父に買って貰い、未来の画家を夢見るようになる。
 昭和九年、旧制中学を卒業すると「絵では食っていけない、教師になれ」という父のもとを離れ、上京して川端画学校洋画家に入学、本格的な油絵の修業を始めた。三年間学んで画家を目ざしたが父の死にあい、断念せざるを得なかったという。
 

 その後、加藤氏は役所づとめをするが、絵画への情熱は冷めることがなかった。
 時代は、日華事変、第二次世界大戦とつづく軍国主義の暗い、きびしい世相であったようだ。
 そんな時代に加藤青年は「挿画を描こう」と決意し、雑誌社に作品を持って歩いた。そうして一年半当時の有力な月刊雑誌『キング』等から注文が来るようになった。



加藤敏郎・画、「異説忠臣蔵


 加藤氏が堰(せき)を切ったように画才を爆発させたのは、戦後の昭和二十五年頃からだ。それまでの努力が実って、寝る間もないほどの"超売れっ子"になった。
 毎日、編集者が泊まり込んでいて『そう、四十五日間で、寝床に寝たのはたった二日だった」という。



加藤敏郎、画、横溝正史『緋牡丹狂女』(「小説の泉」昭和29年7月)


 若くして挿画界に名を馳せた加藤氏だが、不思議に師と仰ぐ人物はいない。唯一、挙げるならば、今は亡き美人画の大家志村立美氏でその作風に魅かれたというより、軽妙洒脱で温かい人柄に感動したのである。



加藤敏郎:画、宮内寒弥「心虹の如く」(「富山新聞」)


『生前、大変、お世話になった』と加藤氏は、柔和な顔をほころばせて、懐かしそうに語った。
 これまで手掛けた作品の中で、一番印象に残っているのは『小説サンデー毎日』に連載された山岡荘八氏作の『伊達正宗』
戦国武将を描いて、新境地を拓(ひら)くことが出来たという。



加藤敏郎:画、横溝正史『二人後家』(「小説倶楽部」昭和29年4月)

 そしていま加藤敏郎氏は、挿絵画界の重鎮である。自己流で築き上げた風格のある画風は、加藤氏独自のものであり、亜流ではない。
『混とんとした戦国時代のダイナミックな群像に共感を覚える』と語る。
 話は変わるが、加藤氏は加藤清正公の末裔で、正確にいうと、清正公の子で酒田に飛ばされた忠広の子孫だ。気品のある物腰は血筋のよさか。



挿絵画家・加藤敏郎(1927[大正2]年3月31日―1993[平成5]年6月4日)、自宅の庭にて


 現在、『歴史読本』に早乙女貢氏作『会津士魂』、『オール読物』に笹沢佐保作の『宮本武蔵』等の挿画御執筆中。
 仕事一筋の加藤氏にはこれと言った趣味はなく仕事の合間にクラシック音楽に耳を傾け、ホッと一息つく。
 お子さん達はすべて独立し婦人と二人暮らし。」



加藤敏郎:画、西村亮太郎「無明隻腕流れ」(「読切特撰集」双葉社昭和32年



加藤敏郎:画、西村亮太郎「無明隻腕流れ」(「読切特撰集」双葉社昭和32年



加藤敏郎:画、西村亮太郎「無明隻腕流れ」(「読切特撰集」双葉社昭和32年