非水は中央新聞社に6年間在籍し、「中央新聞週報ホーム」や連載記事をまとめて出版した「富士山スケッチ」、雑誌の表紙や口絵、装丁デザイン等を広く手がけていた。その他、写真報道のない時代であったので、事件や相撲などの報道用スケッチを沢山描いている。



杉浦非水:画、『富士山スケッチ』(金尾文淵堂、明治41年


杉浦非水:画、『富士山スケッチ』(金尾文淵堂、明治41年



杉浦非水:画、『富士山スケッチ』(金尾文淵堂、明治41年



杉浦非水:画、『富士山スケッチ』(金尾文淵堂、明治41年


富士山の八合目に電話が新設された時の記念式典を、記者として1週間もかけてその道中の様子を報道用のスケッチとして新聞に連載された。のちにこのスケッチは『富士山スケッチ』(金尾文淵堂、明治41年)として刊行された。


この本の装丁について「表紙を白い駿河判紙を選み(駿河判紙を証明するために端の一部に紙の製造所の緑色の印の捺されたもの)背張りを緑と赤と黒の段だら織になった甲斐絹を用いたりした。……意匠は意味の表示であり説明でなければ、大衆の心を捕らへることの出来なかつた好適例でもあった」(「思い出話と述懐」『書窓』第2巻1号1935年10月)と記している。富士山に因んだ資材の選択だったのだろうが、はたしてどれだけ「大衆の心を捕らえる」効果があったのか? アピールするにはちょっとわかりにくいように思えるが。 


1908年には三越呉服店の嘱託となり、「三越タイムズ」「三越」の表紙を13年間描き続けた。