▶︎『赤穂浪士』初出=『東京日日新聞』昭和2年5月10日〜3年まで、「大阪毎日新聞」夕刊に連載。
「──やぼな屋敷の代償捨てて、腰も身軽な──浪人になったが、ありがたいことに、新聞社は『鳴門秘帖』の終わったあと、引き続いて大佛次郎さんの『赤穂浪士』を受け持たしてくれた。大佛さんは、そのころ三十になるかならぬかの新進気鋭だった。『赤穂浪士』が、大評判だったのはご承知の通りである。四十年ほどたったこの間(昭和三十九年)もNHKの連続ドラマで、若い人にもお馴染みの小説だ。あいかわらず、私の絵はへただったが、小説の評判がよければ、画家も恩恵に浴する。『日輪』『鳴門秘帖』『赤穂浪士』と、好評の新聞の連載が続いたので、私のさし絵が家としての立場も確実になった。──自分の実力でなく、知らぬ間に、そうなったことには、かなり不安を感じていたが──。『赤穂浪士』のあとも、『由比正雪』『ごろつき船』など、大佛さんのものに、さし絵を描かしてもらうことができた。」(『私の履歴書』第31巻、日本経済新聞社、昭和42年11月)より。