藤島武二「蝶」1904年
さらに「ミュシャやクリムトたちの絵画から刺激されつつ、日本の油絵としてはかなり大胆な表現をします。胸を出すなど裸体画の問題には、藤島の師にあたる黒田清輝も何度もぶつかるわけですが、ある意味で黒田よりもっとエロティックです。接吻という行為とその周りを蝶が飛び交っているという感じはフランス世紀末のレヴィ=デュルメールなどからのヒントがあるのでしょうが、かなりバタくさい顔とはいえ日本人の女性が上半身はどうもはだけているような状態で、かなり肉体的な行為である接吻をし、蝶が舞い飛ぶ。」と、主張する。官憲のフシアナともいうべき目を見事に欺き、鉄仮面のようにあざ笑っている藤島の顔が目に浮かぶ。
この時代、人前では髪をほどいた顔を見せることは余りなく、髪を見だしたままでの接吻とは、かなりみだらなイメージが当時はあったものと思われる。蝶が花の蜜を吸うように自らも花に接吻をし、甘い光を吸っているのではないだろうか。
蝶だけではなく、蛾も描かれており、フランス語で蛾は『パピヨン・ドゥ・ヌイ』で『夜の蝶』という使い方をしている。つまり厳密に蛾と表現したい場合は『夜の』という言葉をつける。ドイツ語でも同様に、日本でいう蝶『シュメッタリンク』で蛾も言い表し、厳密に蛾といいたい場合は『夜の』という意味をつけて『ナハツシュメッタリンク』という。この絵には蛾=夜の蝶が描かれている。夜の蝶が甘い蜜を吸いながら、髪を乱して接吻を交わしている絵という風に、解釈が出来るのではないだろうか。
藤島武二:装丁、与謝野晶子『みだれ髪』(東京新詩社、明治34年)
となると、『みだれ髪』挿画もヌードである可能性が高い。このみだれ髪の挿画は、時期的に見ると「蝶」の下絵的な意味合いがあり、描かれている女性はヌード姿で接吻をしていると推察しても、無理な空想と否定することは出来ないだろう。
一見そんなエロティシズムを感じ取ることは難しいかも知れないが、裸体画を発表することが難しい時代背景を考えると、精一杯のエロティシズムの表現だったのではないだろうか。