齊藤昌三をゲテ本創作へと走らせた動機は何だったのか、奇抜な資材を使ったゲテ本とよばれる本が誕生するには、それなりの背景があったはず。限定本黄金時代を準備するファクターとは一体なんだったのだろうか、探ってみよう。


『書物の近代』等で知られる紅野謙介氏は「帝都東京に壊滅的な打撃を加えた1922(大正12)年の関東大震災も、新しい都市計画へ構想を膨らませリ一方、失われた明治に対する愛惜の情をかき立てた。……とりわけ帝国大学図書館をはじめ有数の図書館・文庫が炎上、消失したため、文献資料の保存があらためて痛感されることになった。建築物は建て直せばいいが、書籍のなかには償いきれないものが多い。失われたのは古い文書ばかりでない。ほんのわずか前の明治の書物もまた多く烏有に帰した。復興後の都市の景観が見違えるように変わっていくなか、すぐ手のとどくはずだった過去が次第におぼろになり、遠ざかっていく。そのときから記憶のなかの明治を具体的なモノの収集・保存を通して、確認しようとする運動が始まる。


齊藤昌三はもともと在野の書物愛好家であった。趣味の雑誌を発行しているうちに、明治の書物に関する愛着と知見がふえ、震災後の気運が彼を明治文化研究に向かわしめた。1925(大正14)年齊藤はやはり書物愛好家として知られる石川巌、神代種亮(たねあき)が前年から始めた雑誌『書物往来』に編集同人として参加。また半年後には、パトロンを見付けて、雑誌『愛書趣味』を創刊、単独で編集にあたった。彼がそこで積極的におこなったのは、明治期の文献の発掘・紹介である。彼の場合、ただオタク的に書物を愛するというのではなく、出版ジャーナリズムを動かしていく実践的な能力を手放さなかった。吉野作造、尾竹竹猛(たけたけき)、石井研堂らとともに明治文化研究に加わって刊行した『明治文化全集』(1928年)や、白木屋での古書即売会の百貨店進出(1932年)などがその功績だが、何といっても最大の成果は、雑誌『書物展望』の刊行および書物展望社の運営だった。」(紅野謙介「齊藤昌三 書物への飽くなき愛情ゆえに……」、『メディア社会の旗手たち、朝日新聞社、1995年2月)と、関東大震災から書物展望社設立までの経緯と、動機を短い文章で的確にかいている。



「書物往来」第二年第二号(大正14年7月22日)



「愛書趣味」臺三年臺三号(昭和3年3月28日)



「書物展望」第二巻第三号(昭和7年2月6日)


しかし、書物展望社を設立したからといって、ゲテ本がすぐに誕生するわけではない。続けて紅野謙介氏の言い分に耳を家か向けてみよう。


斎藤昌三らの仕事はあくまでも政治的には中立、無関心な高踏派に属するように見えながらも、しかし、具体的なモノに即しながら、人とモノとメディアの歴史を相関的に捕えようとしていたと言えるだろう。改造社のいわゆる”円本”である『現代日本文学全集』別巻、斎藤編『現代日本文学大全集(1931年)は、当時としては博捜をきわめた資料だったし、『近代文藝筆禍史』(1923年)、『現代筆禍文献年表』(1932年)など出版条例にひっかかって発売禁止になった単行本・雑誌・新聞への詳細な調査も、まさに政治とメディアの闘争史をたどる作業にほかならなかった。


大量販売・廉価本の文学全集として各社から刊行された”円本”は、家庭に常設された”文学図書館”として、文学を市民の日常に近づけ、同時にまた多額の印税を作家たちに手渡すなど、文学の社会的地位向上にやくだった。しかし、反面、同じ時期に刊行される”文庫本”とともに、均一の装丁・造本による書物の規格化をもたらし、文学を活字を通して読み取る内容だけの世界に限定して仕舞う危険性も強かった。