北原白秋と敵対することになってしまった菊池寛の新聞小説『眞珠夫人』(「東京日日新聞」大正9年6月9日)が、倉庫から出て来たので見てみよう。開くとパリパリと崩れてしまいそうな本物の新聞だ。


真珠夫人』(しんじゅふじん)は、1920年大正9年)の6月9日から12月22日まで「大阪毎日新聞」、「東京日々新聞」に連載された。内容は、大正時代、男爵令嬢、唐澤瑠璃子は敵の罠にはめられた父を救う為、泣く泣く卑しい高利貸しの荘田勝平の妻となるが、同じ貴族で恋人の直也の為に処女を貫きながら生きていく女の愛憎劇。



挿絵:鰭崎英朋、菊池寛真珠夫人 1』(「東京日日新聞大正9年6月9日)


これらの挿絵は、私が探し続けている「キャラクターがどのようにして視覚化されていくのか」を調べる、絶好の資料だ。手元にこんな立派な資料があったなんて、灯台下暗しとは正にこのことかも。女優のりょうを思わせる美人で、そそりますよねえ。これが挿絵の力なんですね。動機は不純だが、まだ新聞小説を読み始める前から、読んでみようかな!という気にさせられますよね。




挿絵:鰭崎英朋、菊池寛真珠夫人 2』(「東京日日新聞大正9年6月9日)


早速最初の人物が登場するところまでを読んでみよう。
「汽車が、大船を離れた頃から、信一郎の心は、段々烈しくなって行く焦燥(もどかし)さで、満たされて居た。国府津迄の、まだ六つも五つもある駅毎に、汽車が小刻みに、停車せねばならぬことが、彼の心持ちを可なり、いら立たせて居るのであった。


彼は、一刻も早く静子に会いたかった。そして彼の愛撫に、渇えて居る彼女を、思ふさま、いたはつてやりたかつた。
……湯河原の宿に自分を待って居る若き愛妻の面影を、空に描いてみた。何よりも先ず、その石竹色に潤んでいる頬に微笑の先駆として、浮かんで来る笑靨(えくぼ)が現れた。


それに續いて、慎ましい唇、高くはないけれども、穏やかな品のいゝ鼻。が、そんな目鼻立ちよりも、顔全体に現れて居る処女らしい羞恥性、それを思い出す毎に、信一郎自身の表情が、たるんで来て、其処には居合わせぬ妻に對する愛撫の微笑みが、何時の間にか浮かんでいた。」


これが、挿絵を描くための文章だが、信一郎の顔でないところが、何とも挿絵家・英朋の下心というか戦略を感じますね。それにしても、年齢は若そうだが、太っているのか痩せているのか、髪形や着物の柄等は挿絵家にお任せだったのだろう。文章には書かれていない。もしかしてこの女性は鰭崎英朋の好みの女性像なのかも知れない。



挿絵:伊東深水菊池寛菊池寛全集 真珠夫人、慈悲心鳥』巻頭口絵(平凡社昭和4年
この頃は、こんな髪形がはやっていたのだろうか? 鰭崎英朋が描いた唐澤瑠璃子と、きつね目のところなど、どことなく似ているようにも思えるのだが。



挿絵:鰭崎英朋、菊池寛真珠夫人 3』(「東京日日新聞大正9年6月9日)


菊池 寛(きくち かん、1888年明治21年)12月26日 - 1948年(昭和23年)3月6日)は、「京大卒業後、「時事新報」記者を勤めるかたわら、「恩讐の彼方に」等の短編小説を発表して、新進作家としての地位を確立。さらに面白さと平易さを重視した新聞小説真珠夫人』で、一躍、流行作家になる。その一方、鋭いジャーナリスト感覚から’23年、私費で「文藝春秋」を創刊したところ大成功を収め、富豪となる。日本文藝家協会を設立、会長等を務め“文壇の大御所”と呼ばれた。芥川賞直木賞の設立者でもある。大映初代社長を務める。これらの成功で得た資産などで、川端康成横光利一小林秀雄等新進の文学者に金銭的な援助をおこなった。テレビドラマ『真珠夫人』は、彼の作品が原作であり、長らく絶版となっていたが、2002年のテレビドラマ化に伴い復刊された。1927年、第16回衆議院議員総選挙に、東京1区から社会民衆党公認で立候補したが、落選した。」(出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』)


菊池寛の代表的な作品としては『屋上の狂人』、『父帰る』、『無名作家の日記』、『恩讐の彼方に』、『忠直卿行状記』、『蘭学事始』、『藤十郎の恋』等が知られている。