前日のブログに、伊藤彦造は自分の挿絵の落款に「自一家成」とか「大和魂ヲ養成セヨ」「憂国の絵師伊藤彦造」などというメッセージを書き込み、一時ジャーナリズムから敬遠されていたが、昭和12年、吉川英治「天兵童子」の挿絵に伊藤新樹の名で再び返り咲いた、という話を書いた。



伊藤新樹とは「荒木大将にちなんで『伊藤新樹』と署名していた。」(石子順造『俗悪の思想』太平出版社、1971年)とあるように、荒木大将こと荒木貞夫に心酔してこのような雅号を使っていたようだ。


このことに関連して、彦造は「私の家はむかしから武人の家柄だし、わたし自身も、心では画人ではなく武人なんです。その立場から家を愛し、国を愛し、天皇陛下を愛しているわけで、剣を執ってたたかう侍を描くことで、武人の精神と愛国の精神を少年たちに伝えようと考えていたわけです。また大阪にいた時分、有田ドラッグの新聞広告のページをもらって、国威発揚の物語と挿絵を自分で書きましたが、──むろん原稿料も画料もなしですよ──これも、憂国の気持ちを世間に訴えたい一心からです。



挿絵:伊藤彦造、有田ドラッグの新聞広告



挿絵:伊藤彦造、『角兵衛獅子』(昭和2年


わたしのこの気持ちを、さすがに頭山満先生や内田良平先生はわかってくだすって、『憂国の絵師』と呼んでくださいました。支那事変からあと、わたしが荒木貞夫閣下(*1)の腹心の秘書となり、陸軍のいわゆる第五列(*2)になったのも、日本の国の行方を憂いたからなんですよ。」(上笙一郎聞き書き日本児童出版美術史』太平出版社、1974年)と、語っている。


(*1)=荒木 貞夫(あらき さだお)とは、ウィキメディアに「荒木 貞夫(1877年5月26日-1966年11月2日)は大正〜昭和の陸軍大将、第一次近衛内閣、平沼内閣の文部大臣。男爵。皇道派の重鎮であり、昭和初期の血気盛んな青年将校のカリスマ的存在であった。」とある。

(*2)第五列(だいごれつ)、やはりウィキメディアに「第五列(スペイン語:quinta columna、英語:fifth column、独:Fünfte Kolonne)とは、本来味方であるはずの集団の中で、敵方に味方する人々の存在を指す。この表現はスペイン内戦で反政府軍側の将軍エミリオ・モラが1936年にラジオで、『我々は4個軍団をマドリードに向け進軍させている。人民戦線政府が支配するマドリード市内にも我々に共鳴する5番目の軍団(第五列)が戦いを始めるだろう』と放送したことに起源する。
この単語はまた、自らが居住している国家に敵対する別の国家に忠誠を尽くすことを求められた人々や、自らが居住している国家に対して戦争のときに敵方の国家に味方する人々を指す場合にも使用される。」とあった。



挿絵:伊藤彦造、『堀部安兵衛』(昭和3年)、馬上の深編み笠の武士が仇討ちの相手。生死を懸けた戦いに挑む寸前の緊張感の中にエロチシズムが生まれ、彦造の研ぎ澄まされた計算が時代の共感を捕まえる。