河上英一「空襲下の吉野村定期便」(「真書太閤記付録」読売新聞社、昭和40年5月10日)より

昭和19年10月から翌年の3月末に招集されるまで、「新書太閤記」の原稿とりが私に課せられた仕事であった。私はもともと芸能一般の担当記者であったが、戦争もはげしくなって映画は制作3社で月産2本程度となり、大劇場も閉鎖されたし、また文化部に在籍する唯一の若手記者となってしまったからには当然だった。


 私に与えられた最高最大の任務と自負して、妻子を疎開させたあとの小石川(文京区)の自宅から勇躍朝まだきにとび出す。鉄かぶとにゲートルを巻き、肩にかけた雑のうには握り飯2個とイリ米を入れていた。都下・西多摩郡吉野村(現在は青梅市に合併)の吉川英治邸めでおもむくには、途中しばしば空襲警報にあうので、何時間かの浪費を見こさなければならなかったからである。


 山手線大塚駅から新宿で乗り換えて中央線にはいると、中野─三鷹間でまずやられる。電車から降りて退避しなければならない。そして立川から青梅線にはいってヤレヤレと思うと、また立川飛行場付近でやられる場合もある。こうして二俣尾駅から徒歩25分の吉川邸に達する。うまくいって3時間半、ひどい時には5時間もかかった。帰途その原稿を当時のさしえ執筆者玉村吉典画伯に届けるため中野に下車し、前回の原稿とさしえを受け取って夕刻めで帰社するわけだが、原稿が1回分しか書けてない時には、また翌日も吉野村通いをしなければならない。


しかし、この仕事をつらいとも思わず、どうやら最後までつづけられたのは、私の若さにもよるが、ひとえに吉川さんの限りない温情がさせたのである。べつに吉川さんが口に出して私をねぎらうわけではない。私の訪れに示される、なんともいわれないあたたかい受け入れかたには、百万言にもおよばないものがふくまれていた。いや吉川さんばかりではない。ご一家総ぐるみで定期便の私を遇された。


ことに奥さんが、酒好きの私のために、ひそかに地酒などを用意されておられたりすると、私の感動は極限に達する。国民酒場に1時間も2時間も立ちんぼうしなければ一合の酒にありつけぬ時代だったからだ。今にして思えば、吉川家の温情が、はげしい空襲下にも一日も休まず「新書太閤記」を連載させたといえよう。」


河上英一が担当した約6ヶ月とは、玉村吉典が挿し絵を描いた時期だとすると、「男をつくりて」から「騎兵」までの53回ということになる。