しん散歩(11)…田無用水、立川街道芝久保3丁目

【しん散歩(11)…田無用水、立川街道芝久保3丁目】




・写真上=田無用水、立川街道芝久保3丁目(昭和43年撮影)
・写真下=上と同じ場所を2018年9月15日撮影


 田無用水は、東京都小平市西東京市を流れていた全長約5.6kmの用水路で、江戸時代前期に田無村の飲み水として玉川上水から分水してつくられました。
 田無村の成立について簡単に眺めてみると、慶長11年(1606)、幕府は江戸城改築にあたり、青梅から成木石灰を運搬するために、青梅街道(成木街道)を開設しました。田無村は中野、箱根ヶ崎などとともに街道の継場として設けられました。しかし、当時は武蔵野の逃げ水と言われるほど水利が悪く、朝夕、谷戸(現:西東京市谷戸町)から水を汲み運んで飲み水としていました。
 承応2年(1653)に玉川上水が開通し、その3年後の明暦2年(1656)に小川用水が開削され、青梅街道の馬継場として新たに小川村が開村されても、田無村の水事情は改善されないままでした。
 田無用水開削の嘆願書が提出されて許可が下りたのは元禄9年(1696)のことでした。田無用水は当初、田無村一村のための吞用水として二里半ほどの用水路が開削されました。喜平橋下流玉川上水から分水されましたが、その樋口は四寸四方と他の用水に比べて小さいものでした。(ちなみに野火止用水は六尺×2尺、小川用水は一尺四方。)
 その後幕末から明治にかけて、吞用水だけではなく、廻田新田や田無村の田用水としても利用されることとなりました。


この道路沿いに50年前のまま畑が残っているのがここだけでしたので、間違いないと思いました。さらに、昔の地図には、クランクカーブしている場所が2箇所ありますが、この写真の手前に、造園の畑や、田無よりのところに歩道が約50mだけ、田無に向かって右側(南東)にあるので、ここが「コ」の字に曲がっていたところではないかと思いました。さらに昭和62年の住宅地図を見ると、この畑や、「コの字」カーブした時の名残の歩道などがわかり、芝久保3丁目にはここしかないと確信しました。カラー写真の横断歩道は南芝久保通りかな、なんて思いながら撮影してきました。


この写真は地図の赤丸部分を小平方面に向かって撮影しました。ここだけ50m程ですが歩道がありましたので、ここが地図の赤丸の場所だということがわかります。


しかし、別の地図を見ると、「コの字」カーブはなく、芝久保用水の分水口になっていました。50mほどの歩道は、水路跡であったことは間違いないのですが、歩道を流れていた流れの先が、元の流れに戻ったのか、芝久保用水になって流れていったのか? まさか、地図によって違うとは……。何れにしても最終的には田無用水は立川街道に戻るか、最初から曲がっていないかのどちらかしかありません。


滝島 俊さんから 「芝久保用水の分水口について考えてみました。分水口と思われる南側に歩道がある地点(A)の標高は66.1mです。そのまま進んで、みたけ分社通りの交差点(B)の標高は65.5m。約75mで60cmを直線的に下ります。
 一方、芝久保用水の(C)地点は65.9m、(D)地点は65.8mです。つまり、立川街道と みたけ分社通りの交差点から南下する道は登坂なので、芝久保用水としては、その前に流路を作る必要があったわけです。田無用水は、コの字に迂回しなくてもそのまま真直ぐ進むことも出来たと思いますが、もしかしたら芝久保用水を作る時(明治4年1871年)に、(D)地点から(B)地点に戻す水路を作ったかも知れませんね。(B)−(D)間の みたけ分社通りの東側にはそれらしき歩道が存在していますので。」とのコメントと、下記の地図がFBに送られてきました。


実際はどうであったかどうかは確認する術がありませんが、この説明は、私も納得です。立川街道の本流は、道路の対岸に流れを写したのは今もその痕跡が見られるので、確かなことなんですが、その後、どこかでまた立川街道の北側にもどってくるので、芝久保用水分流口と立川街道の窪地を避けるのとを同時に解決することになる、滝島さんの説には説得力があります。

A〜Bは真っ直ぐ進むには鵜野家の入り口付近が現在も地形的に低地になっておりむずかしいかと思いました。立川街道の南側をみたけ分社通りT字路まで直進すると芝久保用水が上り坂になってしまうんですね。写真は立川街道から写真左の路地に入っていく芝久保用水です。


芝久保用水については、いままで立川街道にほとんど行ったことがなく、全く興味がありませんでしたが、地図を見ると案外何度か通っている道だということが判明。西東京中央総合病院の西側の細い道が、芝久保用水路跡だったんだ! そうだとわかると急に身近な存在になってきた!! 現金なやつ、なんて言わないで!


昨日も、西東京中央病院西側にある伏見稲荷神社を撮影していました。



松崎 博さんからEBにこんなこめんとがありました。「 大貫さんが撮影された上の写真の鳥居と稲荷を線路の南側の踏み切りあたりから撮影したのがこの写真(田無図書館所蔵パネル82番)のようです。拡大すると鳥居も稲荷も電車の右側に見えます。手前は北芝久保の用水なのでしょうか。」と。これがその写真です。


滝島 俊さんからもFBにコメントが、「 その通りですね。府中道の踏切から撮影されてます。芝久保用水もちゃんと写ってますね。今は病院の陰になって稲荷は見えなくなっちゃいましたが。」と。


昭和35年(1960)に撮影されたこの写真は、府中道と西武新宿線の踏切だったんですね。手前の溝は芝久保用水の昔の姿みたいですね。これはすごい、すばらしいです! 話がとぎれとぎれですがみんなつながっていますね。私が撮影した伏見稲荷神社が58年前に撮影された古い写真にも写っているのがなんか感動ですね。


松崎さんがアップしてくれた「田無図書館所蔵パネル82番」の場所に行って撮影してみました。手前の水路はもちろんありませんが、手前から奥に向かって3番目の電柱の右にある神社も見えません。電車も白黒写真と同じ場所に来る前に遮断機が降りてしまい、同じような写真を撮ることはできませんでした。なんとか構図だけは似せてみました。


西東京中央総合病院の北側から、自転車が一台やっと通れるくらいの細い路地を、西の五軒家通りに向かって進んでみた。


だんだん狭くなっています。水の流れに逆らっているようです。


ますます狭くなってきました。こんな細道が舗装されていますが、この細道って都道なのかな? 一番奥に道路が見えます。


話は最初の分流点に戻りますが、立川街道芝久保町2丁目の芝久保用水取水口には水車があったようです(地図④)。このクランクカーブは水車場だったんですね。芝久保用水下流にももう一台水車があったみたいです。2つめは、向南中央通りと市役所通りの交差点のあたりです。水流が弱いのではないかと思いますが、急な坂を利用して、なんとか水車を回していたんですね。(地図は『田無市史第3巻民俗編』より転載)


雨が降った時くらいしか流れない石神井川にも水車があったんですね(地図⑥)。ちょっと信じがたいです。4年後には廃止届がだされている。もしかして、水量が不安定だったのかもしれませんね。この水車は、現在は向台公園になっているところに住んでいた小山平太郎家によって、明治36年に設置届が出されたましたが、水車講を構成し、21株・33軒の家が利用していました。しかし、4年後には廃止届が出されたようです。が、廃止に至った理由はわからないようです。……コンスタントに一定量の水を得ることが難しかったのではないかと推察します。



「明治期には田無に七カ所の水車場があったが、その中でもっとも規模の大きな水車場を持っていた本町(旧下宿)の下田富宅家の水車…。同家の水車場は明治末には六三個ものつき臼があり、挽き臼は一個でつくのを専門に行っていた。この他の水車場では芝久保の高橋徳太郎家のものが明治中頃の一時期に、四六個つきの臼を持つ規模を持ち、また屋号ヤマジョウ(下田太郎右衛門家)といわれた家は、つき臼一六個、挽き臼六個で、いずれも水車家業を営んでいた。図に示したその他の水車はつき臼二個から十個の規模を持つ、個人もしくは共同の水車であった。……南芝久保の中村家の東側の角にも水車があった(図中⑤)ここの水車は用水の下流にあり、10軒内外の家がこの水車を使って麦や粟などの雑穀をついていた。夜中に雑穀を入れておくと朝にはつきあがっていた。用水はこの水車場から急斜面の坂道沿いに南下して、石神井川沿いの田(現在の養護学校辺り)に流れ込んだ。この用水の流れる音はドンドンと周辺に響き、周辺の人はこの用水を通称ドンドン川と呼んでいた。」(『田無市史第四巻民族編』)


「田無の水車は一カ所を除いて用水にかけられた水車であった。それらはいずれも何メートルか地下に掘り下げてその落差を利用して水車を回した。半地下式の穴水車といわれるもので、それから排された水は、暗渠を通って表水路に流れ込んだ。暗渠は体内ボリといわれ、何メートルかおきに地表に息抜きの縦穴を掘っていた。その深さは場所によってはほとの高さほどもあり、川さらいの時にはこの縦穴から入って石ころなどを拾った」(前掲書)。





昭和35(1960)年頃の芝久保町を流れる田無用水。流れの両脇に盛り上げられた土は、滝島さんのおっしゃっていた「土揚げ;ドアゲ」による堤?ってこれですね。



滝島さんよりFBにコメントがありました。
大貫さん。この昭和35(1960)年頃の芝久保町を流れる田無用水の写真の場所、以前指摘した所(三河屋酒店前)ではないですね。
再度確認した所、この場所は小平市との市境で、用水の右側は現在花小金井小学校があるところです。すなわちこの大きな土手は、市史に書かれている道路より高い所を流すために土盛りした土手で、明治初期の地図にも記載されている所ですね。
証拠になったのは、左側に写っている「ちば」という名前のお店とその隣の酒屋です。以前は「三河屋さん」の看板として「清酒 神鷹」があると思ったのですが、「ちば」は現在もあるラーメン屋さんの「唐麺ちば」ですね。ラーメン屋さんの看板だったのではないでしょうか。その奥は「くるみや酒店」になります。もちろんタバコも売ってます。昔の写真で測量をしているような所が小平市との境で、左の店は小平市のお店です。また、花小金井小学校は昭和48年開校ですので、この時はまだありません。


素晴らしいですね、よくわかりましたね。それにしてもよく似た場所があるものなんですね。「住宅地図を確認しましたが、おっしゃるように「中華ちば」「くるみや酒店」「理容こけし」の3軒が田無市小平市の市境のところから小平市を眺めたところにありました。この場所は、『田無市史第3巻通史編』に記されている写真説明「土を盛り上げた田無用水路(芝久保町 1960年代)」に、惑わされて、小平市側を全く見ていませんでした。


滝島 俊 おそらく田無市史に掲載されているような写真は、民間の方が撮影したものではなく、市役所の下水道課などが撮影した工事用の確認写真などが多く、転用の時にあまり詳細を確認していないことが多いようです。場所も大雑把な記載ですし・・・。
今回の写真は、ドアゲにしてはあまりにも量が多いので疑問に思いました。なお、写っているお店や小学校側の建物の状況から推測すると、撮影は1965〜66年頃と思われます。


私も最初にアップした田無用水(1968年撮影)に比べて、後にアップした1960年代に撮影した、「ドアゲですか?」 と質問した写真の堤幅?が大きいな、と思いました。が、それ以上疑問に思いませんでした。まさか土盛した写真だったとは‼︎ あまりの違いの大きさに、西暦と元号を間違えて「わずか数年でこんなにも違いが…」というコメントをしてしまったくらいでした。


滝島さんが教えてくれた、立川街道・花小金井小学校前の田無用水(「ちば」の看板がある白黒写真)が、盛り土されて窪地を突破したところに行ってきました。結構深く長い窪地ですね。


「ちば」の看板がある白黒写真と、昨日撮影してきた写真を合成してみました。