日本地図にはない幻の軍用軽便鉄道路線跡

十数年前から西武新宿線西武柳沢と田無の間に気になっていた小さなトンネルがある。上を西武新宿線が走り、入り口付近は苔むしてどことなく不気味で人通りも少ない。幅が3m程で車が通るのは難しく車両通行止めになっている。なぜこんなところに、役に立たないトンネルを作ったんだろうか? 今日はなぞだったトンネルにまつわる都市伝説の解明に挑戦してみた。 

これが長年のなぞだった西武新宿線西武柳沢と田無の間にあるトンネル、北側より南方面に向かって撮影。


まずネットで調べてみたら、戦争末期の昭和19年の秋から20年の終戦にかけて1年足らずの間、中島航空金属の工場で製造したエンジンブロックを中島飛行機製作所武蔵工場へ運ぶため軍用軽便鉄道が敷かれ、その名残らしいことがわかった。すでに廃線となってしまった路線の延長線上に私が住んでいるマンションがあり、敷地に隣接するように廃線跡が通っていたのか、と思うと何か見つかるかも知れないと思いじっとしていられなくなる。


まずは、路線跡を探るための情報を入手しなければと思い、TEXAS大学図書館のサイトにある旧米国陸軍地図局が1945〜1946に発行した詳細な路線地図がネットで見られるので下記のURLからダウンロードする。
http://www.lib.utexas.edu/maps/ams/japan_city_plans/txu-oclc-6549645-06.jpg


67年前に制作された地図なので、まだ住宅などは殆どなく道路も今とは全く違っているので、現在の地図や1985年に発行された「ゼンリン住宅地図保谷市」などに照らし合わせて、とりあえず家からトンネルまでの全路線跡の三分の一ほどを調べる。


旧米国陸軍地図局制作の地図やグーグルマップの空撮を張り合わせた地図、そして「ゼンリン住宅地図保谷市1985年」など数枚の地図を頼りに廃線になってしまった路線跡を探し歩いてみたが、かつて路線があったところにはマンションや住宅が建てられたり、店舗になっていたりで、築堤など遺跡どころか路線の面影さえもほとんど見つけることはできなかった。

空撮地図と、右は旧米国陸軍地図局制作の地図


こうなると、なぞはますます深まって、なんとか誰も見つけられなかった路線跡を発見して見ようと探索に弾みがついてくる。



写真.1 空撮写真をつなぎ合わせ路線跡をマーカーで落とした自作の地図を眺めながら探索を始めると、1階に"いなげや"が入っているマンションに突き当たる細道が、寸断された路線跡ではないかと思われる路地を見つけることができた。通路の奥はいなげやの出入り口にしかつながらない狭い通路は、大きなスーパーマーケットのために作られた道とは思えず、なんだろう、とだいぶまえから思っていた。



写真.2 新青梅街道に寸断されてはいるが、写真1のマンション前の路地から続いているように思える。



写真.3 新青梅街道を渡り、スレートの建物の南側に回り、いなげやのマンションとその前の路地や新青梅街道を振返る。



写真.4 この道路と左の畑は、路線図にも確認することができるので、まちがいなく線路があった場所だ。南方面となる道路奥に進むと西武新宿線が走っており、大きな檜のてっぺんが見えるところがトンネルのあるところ。



写真.5 西武新宿線西武柳沢と田無の間にある軍用軽便鉄道の路線を確認できる僅かな路線跡トンネル南側



写真.6 トンネル内から南方面の青梅街道を望む。右には農家とお寺と赤い小さな鳥居がある。




写真.7 写真5を青梅街道から振返る。トンネル南側から、手前の青梅街道に抜ける路地。この道幅からも軍用軽便鉄道が小さなものだったのが想像できる。



写真.8 青梅街道を横断した路線跡は、南側の道路の反対側にあるヘアサロンあたりに続くはずだ。この建物の裏に回ってみると川に向かうそれらしき路地があった。



写真.9 地図で確認すると、青梅街道を横断した軍用軽便鉄道は、この路地の辺りを走っていたようだ。



写真.10 路線跡と思われる路地は金網フェンスに囲われた川でとぎれるが、川向こうには土地の境界線に路地の続きらしき細い路地を確認できる。地図には「wood」とあるので木製の橋があったものと思われる。



写真.11 川の南側から軍用軽便鉄道路線跡の路地を振返って眺める


今回の探索で間違いないと思われる昔のままの確かな証拠は、トンネルと、川で途切れた細い路地だけだった。


この路線は、軍事用のせいか当時の日本の地図には載っていないらしく、つい最近まで謎の引込み線と言われていたようだ。旧米国陸軍地図局が制作した地図と、このトンネルが残ってなかったら、軍用軽便鉄道はいまだに幻の路線として、トンネルは役立たずの不思議なトンネルとして語られていただろう。


中島飛行機は、1917年から1945年まで存在した日本の航空機・エンジンのメーカー。ンジンや機体の開発を独自に行う能力と、自社での一貫生産を可能とする高い技術力を備え、第二次世界大戦終戦までは陸軍・海軍の戦闘機の製造に携わる東洋最大、世界有数の航空機メーカーであった。中でも1941年製造の一式戦闘機「隼(はやぶさ)」や、三菱製の「零式艦上戦闘機」(いわゆる「零戦」)に搭載された航空機エンジン「栄(さかえ)」などが有名。零戦三菱重工製、隼は後の富士重工となる中島飛行機製。


軽便鉄道とは、「1067mm未満の軌道や、森林鉄道・殖民軌道・鉱山鉄道など、鉄道法規の規定によらない低規格の鉄道」(ウィキペディア)。