小川菊松『出版興亡五十年』(誠文堂新光社、昭和28年)に見る桜井均の仕事


書棚が全部、全面と後面に2段に収納し並べているせいもあって、必要なときになかなか本が見つからない。
小川菊松『出版興亡五十年』(誠文堂新光社、昭和28年)も、確かに読んだ記憶があり、表紙のデザインも良く覚えているのに3日間探しても出てこないので、結局購入した。こうして、どこかにあるのは分かっていても新たに購入することが多くなった。(おもったとおり、この原稿を書き終わった瞬間に、目の高さの一番目立つところから出てきた。くやしいー。)


小川と桜井は同県(茨城県)人であり、同業者でもあり交流があったようだ。そんな小川が「通信販売外交販売あれこれ」(『出版興亡五十年』)で、桜井均の通信販売に付いて詳しく書いていたので転載する。《写真は『出版興亡五十年』より転載)



「新聞広告による通信販売で、大きな問題を起こしたのは、私と同郷の桜井均氏である。昭和七、八年のころであったか、娯楽雑誌を発行して、読者を会員とし、万一火災等の災害が起こった場合は金五百円を贈るということを発表したところ、保健法類似と見做されてその筋の弾圧をうけた。


そこで今度は、共栄会なるものを作って全国に支局を募集し、五十銭の娯楽雑誌を半額の廿五銭で供給する。支局は宜しく店頭販売など眼中におかず、自ら街燈に立って直接販売をやれという一頁大の広告をした。何しろ半額提供というのだから非常に反響があって、取次制度の不備や、取次店の横暴に不満を懐いた連中から、大いに鞭撻激励されたのであるが、これは取次店に取っての一大事である。


遂に東京堂、北隆館、東海堂、大東館その他の取次店列座の席に呼出されて、ギュウギュウいわされ、取次店の業務妨害と誹謗に対して、一頁大の謝罪広告を出せと迫られた。血気の桜井君何糞つと憤慨したが、これを中止しないと、仕入れた雑誌代も支払わぬと脅かされて屈服し、このため折角企画した娯楽雑誌も、取次業者依頼のみとなって売れなくなリ、八号限りで拝観してしまった。


よって翌年『ウェーバー法による英語直感記憶法』という一円本を発行し、これは仲間へ出さず通販とする目的で、某新聞に一頁大の広告をして反響を見たが、注文が来ない。よって、他新聞に四、五十行程度の広告を二、三回出してみたら、案外の註文が来た。


そこでその間の経験による名広告文を作成して、五段広告を出してみたところ、俄然註文が殺到して自分ながらビックリしたということである。安本の通販で一頁広告を出した大胆さは、桜井氏の気性をよく現わしたもので、私が数々売り尽くした『是だけは心得おくべし』のボロ紙型を買って、更に通信販売によって儲けたこともある。通信販売では櫻井君も色々研究と苦労を重ねた人である。


櫻井氏も猟天狗であるが、猟天狗の中には大天狗もあり、中天狗もあり、小天狗もある。私はまだ行を共にしたことはないが、噂にきくところによれば小天狗らしい。然しなかなか気骨のある人物で、その後の櫻井書店では、文学物、思想物で立派な本を作り、殊に装釘には非常に金をかけて惜しまなかった。


一昨年は大同出版社の別看板も出して、一ヶ月に十余種も新刊を出し、そのく暮の十二月には十六、七冊も乱発し、『俺は残本堆裡に餓死するのだ』といいながら、今日も悠々としておられるのは、どんなに忙しくとも人員を増さず、人件費その他の経営費を、増さなかったからであって、この点は出版業者の大に鑑みるべきところ出あろう。」
と、この原稿で大同出版社として櫻井が苦労していた頃の詳しい話を知ることができた。


そして『是だけは心得おくべし』でおいしい思いをしたのか、同じように辻克己のシリーズ本も過去に他社で散々売れた本の版権を譲り受けて成功している。編集の手間がかからず、そこそこ売れた本であれば新刊を出すよりはリスクも少ないといういいことずくめの出版形態なのだ。賢く金もうけすることを決して卑しいとは思わないが、あまり多くを語らなかったのは櫻井自身にもこのような出版に対して多少の後ろめたさを感じていたのだろうか。