●本棚からの一掴み
図案文字が使われている装丁の実物を本棚から探して見たら、見事な装飾文字の本が結構出てくるものだ。
今日アップした本は写真上から
・装丁家不明、夏秋亀一『赤露の秘密』(萬里閣書房、昭和5年)
・「苦楽」第5巻第12号(プラトン社、大正15年5月)
・「女性」第10巻第4号(プラトン社」、大正15年10月)
●キネマ文字は誰が最初?
・西村美香ほか『モダニズムの出版社の光芒」(淡交社、平成12年)に「『女性』題字ロゴと図案文字」項目があり、早速読んで見ると、「山六郎創案のこの図案文字は事実、大正末期から昭和初期の映画産業で盛んに用いられ当時の新聞広告の映画欄などを見るとこの文字で埋め尽くされている。しかし、その開発、創出については諸説あり、見解は一致しない。山名(*文夫)はそれを山(*六郎)としているが、他にも例えば、昭和初期に南海高島屋の図案家であった今村七郎によると、それは次のようである。」
として
今村七郎「昭和のはじめから戦後まで」(『日本デザイン小史』ダヴィッド社、1970年)に書かれた、今村の言葉を引用している。そこには
「その当時、社会的地位は別として、大阪には神戸で見られない華やかな図案化の存在があった。そのトップは松竹座美術部の山田伸吉であった。全国に行きわたった映画広告独特のレタリングはそのオリジナルが彼の創案によるものであった。アール・ヌーボーとセセッションのミックス字体を古い年代の人なら誰でもしっているだろう。」と、あらたに山田伸吉の名前を登場させている。
さらに西村の「『女性』題字ロゴと図案文字」では、前回このブログでも紹介した矢島周一を引き合いにして
「しかしまた図案家、矢島周一によるとその書体の開発は自身であるという。矢島は大正一五(一九二六)年三月に日本で最初のレタリング字典といわれる『図案文字大観』を出版したが、それは自らが実際に行った映画広告のレタリング制作がきっかけとなって、そのとき考案した書体をもとに集大成したのだという。そこには文字通り『女性』ロゴと似た特徴的な図案文字が掲載され、それ以後の日本映画広告では明らかにこの『図案文字大観』の書体が活用され、広告看板のレタリングなどで使用の事例が幾つも確認できる。」
と、ますます混とんとしてきてしまったが、矢島周一の嚆矢説が一歩リードしたかにみえる記述をしている。
●1913年ころから映画広告に図案文字が登場
「映画広告に乗じて、この装飾図案文字に流行も兆しが見えるのは大正一三年であり、その後の爆発的な流行で、この書体については様々なバリエーションが生み出された。おそらく映画広告人が各々にアレンジを重ね、自己流の図案文字を作り出したのだろう。こうした背景があってこの書体は次第に「キネマ文字」などと呼ばれるようになり、あたかも映画広告を発祥の源とした書体であるかのような認識を得るまでに至った。」
ということのようだ。
しかし、しかし話は二転三転してくる。さらに引用させていただくと
「考案された年代を追うと、どうやら山六郎の『女性』題字ロゴが一番早いようである。この書体のルーツはやはり山六郎のレタリングなのだろうか。」
といいつつも「確かに『女性』ロゴは山六郎の創案である。しかし創刊号を見ると『女性』ロゴの他にも広告の『倶楽部』の文字や『プラトン文具』のロゴなども同じような装飾的文字を確認でき、これらは何も山の考案ではない。しかもそれら『クラブ』の図案文字のほうが『女性』題字ロゴよりもずっと以前に考案され、既に『女性』創刊以前に、様々なメディアに広告としてもとうじょうしている。」
と、山名文夫の説に異論を唱えている。
●最古の装飾図案文字
そして、またまた新たに古田立次「本邦在来の書体より最近の新書体」(『現代商業美術全集 15実用図案文字』アルス、1930年)の文章を引き出している。ここでは
「又明治末より大正にかけて、欧文書体より漢字への書体の転化は可なり、猛烈に行はれ、その端を発して、震災直後より盛に見受けられ始めた所の、近代勘亭流と目すべき映画専用の特殊モダーン味ある、俗に活動文字と称して居るものがある。」
と、装飾図案文字の原点は山六郎よりもさらに古い所にあることを示唆している。
この古田立次説は可なり説得力がある。実際に歴史を体験し、手にし見てきた人の言葉としての真実味が伝わってくるようだ。