日本画家・平福百穂の装丁……7

*画家百穂の誕生と名前のいわれ

「二十四年七月、秋田市の傳神画會が主催して秋田繪畫品評會を開き、審査員として京都の鈴木派の頭領鈴木百年、東京南畫界の重鎮菅原白竜龍を招いた。この品評會は穂庵追弔を目的としたのであるが、出品も數百點あり、なかなか盛會であった。川合玉堂は熊の繪を寺崎広業は人物畫と石楠木の繪を出品し、その他東京畫家の中には川端玉章、熊谷直彦、荒木寛畝、野口小蘋等の尺三位のものもあつた。この時、貞藏は亡父穂庵の畫に習つた半切二三點を本名で出品したが、これを見た鈴木百年は『これは父の魂の乗り移つたものだ』と云って、非常に貞藏を激勵した。一方穂庵とは兄弟のやうに親しく、貞藏を孫のやうに可愛がつてゐた儒者西宮瑞齋は、この時涙を流さんばかり喜んで『鈴木先生、今後よろしく頼む頼む』と云った揚句『貞藏の名前では今後困る、俺が號を選んでやらう』と云って、百年の百と穂庵の穂を取って、百穂の號を選んでくれたのあった。」(小高根太郎『平福百穂』)といういきさつで、「百穂」の号が誕生した。


その後、明治27年、18歳の百穂は瀬川安五郎に付き添われて上京し、川端玉章の文に入り、神田山本町の川端塾に書生として住み込む事になる。ここで障害の友となる2歳年上の結城素明との出逢いがある。同年日本青年絵画協会第三回共進会で三等褒章受賞、日本美術協会秋季美術展覧会で褒状二等を受賞、宮内庁お買い上げになる。このように上京早々、次々と好成績を示し、性格も勤勉で玉章にも大いに可愛がられた。

明治30年東京美術学校日本画科選科を受験、合格し選科2年に編入される。玉章の反対を押し切っての進学であり、この事が玉章の機嫌を損じ、5年間世話になった川端塾を出て、瀬川安五郎の番頭だった大沢方に移る。


32年卒業して、恩人瀬川のことば「父親は田舎にゐても日本の大家であったのだから、息子も田舎にゐて勉強して大家になれ」との言葉に従い、角館の実家に帰る。