明治美術学会と村野藤吾設計による早稲田大学文学部校舎

4月21日、早稲田大学文学部で開催された明治美術学会に出席してきた。この会には五十殿(おむか)利治さんや青木茂さんなど、私があこがれている先生方が沢山いるので、とにかくお会い出来るだけでも、と思い参加した。


五十殿利治さんには『大正期新興美術運動の研究』(スカイドア、平10年)など前衛美術に関する著書が沢山あり、その多くが私の愛読書でもあるので、お会いできるだけでわくわくし、緊張した。


実は五十殿さんには日本図書設計家協会の会報「図書設計」の原稿を依頼しており、ちょうど学会の数日前に書き上げてくれた。村山知義の装丁と挿し絵の話で、実に興味深い原稿をいただくことが出来た。発行は8月の予定です。
そんなこともあり、まずはネットで五十殿のさんの顔写真を探し確認、発表の合間にその記憶を頼りに自己紹介をすることが出来た。




学会が終わってから、早稲田大学教授・丹尾安典さんから文学部の建物が取り壊しになるので、その前に建物を見学しませんか? という申し出があり、先生の案内で急遽、村野藤吾設計の早稲田大学文学部の校舎を見て回った。丹尾教授の熱い思いがいたいほどに伝わってきた。教授会では180人中丹尾先生だけが建物保存派だったそうだ。掲載した写真はTakayuki Itou氏が撮影したもので、丹尾先生が絵はがきにしたものだ。


その後、学会の懇親会があり北京という店に30人程が移動した。ここでは青木先生と話すことが出来た。青木先生はかつて『戦時下の美術書を読む』に「挿し絵家の名前がわからない」と書いてあったので、私のブログで「それは本間国雄です。だれか青木先生に知らせてあげてください」と書いたら、青木先生のところに沢山コピーを同封した手紙が数十通もまいこんでしまったそうで、その話で盛り上がった。青木先生すみませんでした。学会の理事長だとは知りませんでした。


五十殿先生から原稿を送っていただいた時に、失礼かとは思ったが返信のメールに別件での追伸として『池谷信三郎全集』の装丁家の名前をご存知ないか、尋ねてみた。お会いしたときにこのメールのことを覚えていてくれて、五十殿先生もこのサインは見たことがないとのことでした。そして町田市立国際版画美術館の滝沢さんにも問い合わせてくれたが、やはりわからなかった。ここまでわからないとなると意地でも解読したくなる。