山六郎のモダンな挿絵がいい! 龍胆寺雄「生きた假面」

【山六郎のモダンな挿絵がいい! 龍胆寺雄「生きた假面」】
 古い雑誌を2ヶ月間ほど眺め、1,000点ほどの挿絵などの画像をスキャンした。そんな仕事の余禄と言っては申し訳ないが、わたしの好きな挿絵画家、山六郎、山名文夫村山知義、などの挿絵も見つけることができた。
 昭和初期の雑誌などを見る機会はなかなかなくなり、これらの作家の作品にふれるのも研究者や好事家に限られてしまいがちなので、今回スキャンした中から、まずは、山六郎:挿絵、龍胆寺雄「生きた假面」(『文學時代』61P、新潮社、1931〔昭和6〕年1月)を紹介しよう。





ここに使われているコラージュの技法は、美術史上、キュビスム時代にパブロ・ピカソジョルジュ・ブラックらが1912-1913年に始めた最初期のコラージュもしくはパピエ・コレ(『籐椅子のある静物画』)に端を発するといわれている。主観的構成の意図を持たない「意想外の組み合わせ」としてのコラージュは1919年にマックス・エルンストが発案した。主に新聞、布切れなどや針金、ビーズなどの絵具以外の物を色々と組み合わせて画面に貼り付けることにより特殊効果を生み出すことが出来る。(コラージュ〈仏: 英: collage〉とは現代絵画の技法の1つで、フランス語の「糊付け」を意味する言葉。)
  日本の美術史上におけるコラージュ受容の歴史は、大正期の前衛(新興)美術運動の受容と重なるといってもよい。五十殿利治『大正期新興美術運動の研究』(スカイドア、1995年)によれば、「日本に於ける最初の露画展覧会」
1920年10月14日〜30日、会場:京橋区南伝馬町の星製薬3階)においてヴィクトル・パリモフとダヴィット・ブリュルークの作品に数点、コラージュ作品が含まれていた。おそらくこれが日本で見ることができたコラージュの最初期の作品であったと言えるだろう。
 日本人による最初のコラージュ作品の登場はベルリンから村山知義が帰国した1923年頃だろう。実際に写真を貼り付けた作品には村山の代表作でもある《コンストルクチオン》(1925〔大正14〕年、東京国立近代美術館蔵)がある。村山は1924〔大正13〕年には同人誌『マヴォ』を創刊し、日本のダダイズムの中心的人物といえるが、画家というよりは劇作家、演出家として活躍した。

 山六郎は、この『マヴォ』や萩原恭次郎『死刑宣告』(長隆舎書店、1925〔大正14〕年)などをみて、早速、自分の描く挿絵にコラージュの技法を取り入れたのではないだろうか、と推察する。




【山 六郎(やま ろくろう)】
・1897年(明治30年)、高知県内、現在の安芸市に生まれる。
旧制・京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)を卒業後、中山太陽堂(現クラブコスメチックス)に入社。

・1922年(大正11年)に中山太陽堂が併設した出版社・プラトン社に出向し、同年4月、中山太陽堂顧問の小山内薫編集のもと、山が装丁をし、タイトルロゴを制作し、扉絵等を描いた雑誌『女性』が創刊される。

・1923年(大正12年)、山の装丁に注目した山名文夫が入社、また編集者として、直木三十二(のちの直木三十五)、川口松太郎も入社し、同年12月には雑誌『苦楽』創刊。

・1926年(大正15年)1月には雑誌『演劇・映画』が創刊され、同誌および直木の手がけた単行本の装丁、挿絵なども手がけた。同年8月に『演劇・映画』は休刊。

・1928年(昭和3年)5月にプラトン社が廃業し2誌も廃刊、山は東京に移り、平凡社、新潮社等でひきつづき装丁や挿絵の仕事を手がける。

・1945年(昭和20年)に第二次世界大戦終戦を迎え、その後、高知に帰郷。

・1982年(昭和57年)、高知県内で死去、83歳。