◆3人で描いた白井喬二「富士に立つ影」
髷物の小説の挿絵が初めて洋画家の手によって描かれたのは、関東大震災の翌年、マスコミの発展で大新聞が百万部を突破した大正13年のことであった。白井喬二の大作「富士に立つ影」(報知新聞、大正13年7月20日〜昭和2年7月2日)の挿絵を、洋画家から日本画に転じていた川端龍子と、春陽会の洋画家・木村荘八、河野通勢、山本鼎の4人が分担して各6,7回分づつリレー式に受け持った。山本鼎だけが一度のみで早く退いたが、登場人物の多彩さにもかかわらず、龍子、荘八、通勢による三者三様の競作は、読者に違和感を与えることなく評判が高く、鶴三の開いた突破口を更に切り開いた点で大きな意義を持つものである。
龍子は早くから新聞や雑誌にコマ絵を描いていた体験からの余裕なのか挿絵を第二義的な仕事として軽視したのか、才気にまかせたやっつけ的な描き流しが多かったけれども、荘八以下の洋画家には、初めての仕事という緊張はあったものの、特に荘八と通勢にとっては、後に定評を得ることになる挿絵家としてのスタートになった記念的仕事であった。
白井喬二の代表的長編小説「富士に立つ影」。1924‐27年《報知新聞》連載。〈裾野篇〉〈江戸篇〉〈主人公篇〉〈新闘篇〉〈神曲篇〉〈帰来篇〉〈運命篇〉〈孫代篇〉〈幕末篇〉〈明治篇〉に分かれている。1802年から73年にいたる時代を背景として,築城術赤針流の熊木家と賛四流の佐藤家の3代にわたる争いを描いた大河小説。富士の裾野の築城問答にからむ両家の対立を追って話は展開するが,とくに熊木伯典の子である公太郎の明朗型の人間造形に特色があり,同時代の中里介山《大菩薩峠》が輪廻・流転に一つの発想を得ているのに比して,生成発展の姿を三代記の叙述に生かしており,著者の歴史観,人間観をうかがうことができる。