今回は富田千秋について調べてみたが、グーグルで検索してヒットしたのは富田千秋『秘密画集』(イースト・プレス、1996年12月)という書物だけだったので早速購入してみた。



富田千秋『秘密画集』(イースト・プレス、1996年12月)、装丁・表紙絵彩色:渋川育由


これがなかなかよく編集された優れもので、ジャケットの袖に、「富田千秋のこと」として略歴が掲載されていたので引用させてもらうおう。
「1901〜1967年。香川県生まれ。東京美術学校卒業後、挿絵画家として、新聞・雑誌などで活躍。戦時中は一時、戦争物のさし絵も描くが、風情を帯びた美人を描くのを得意とした。(本書の秘密画集は、入手のいきさつからも富田千秋と確信できるが。遺族は公式にそれを認めていない)」
とある。


巻頭には、円谷つぶら「《解説》さし絵画家・富田千秋に晩年の情熱の全てを傾かせた秘密画集」と題した9ページにわたる説明があるので、その一部の略歴に関する部分を引用させてもらおう。

「富田千秋はもともと、さし絵の表舞台で活躍したひとだった。大正末期から昭和初期にかけて、さし絵の黄金時代を迎えている。新聞に雑誌に小説が掲載されるにゆれ、さし絵の人気が盛りたてる。読者獲得の一役もかっていた。


東京美術学校(現・東京芸術大学)出の、美術展出品を目ざす絵は"本画"と称されたけれど。この本画描きたちも、さし絵を描きだしたりする。アカデミックな権威ある美校ならば、上野の『山をくだった』という表現も生まれた。"本画"より"さし絵"を一段低くみなした偏見がはびこっていたのだった。


富田千秋も香川県出身で、美校を卒えていた1901~1967年の生涯で、"本画"を目ざした時期もあったのだ。
 菊池寛にみいだされて、さし絵描きのスタートが切られた。美人画をよくして、美人画好きの菊池寛に気に入られたとみえる。


さし絵画家たちは、朝日新聞の朝刊を舞台に、菊池寛の小説のさし絵を描くこと、これがステータス。上昇志向もきわめた「一流」の看板せおったことを意味していた。その文壇の大御所直々のお声がかりで、富田千秋も『さし絵画家』としては、ラッキーな出発であった。


でも"本画"へのこだわり、屈折も胸底に潜めていたことか。とはいえ幅広い分野で、さし絵をこなしてゆく。小説も、現代ものに時代もの、少年少女もの……と、こなしてゆく。
 代表作としては『海の火祭り』川端康成作、『白夜は明くる』久米正雄作、『砂絵呪縛』土師清二作などの小説を飾った、富田千秋のさし絵。


……昭和10年代には『少年倶楽部』の表紙絵を輪番制で描くメンバーの」なかにも富田千秋は入っていた。当時の少年は今も憶えているだろうか。画風は幅広く、現代ものと時代ものと、巧者に描き分ける。甘美な浪漫調でも若い女性を酔わせて、人気だった。


さし絵界の巨星は、なんといっても岩田専太郎、この岩専にせまるのが林唯一だった。彼らの後につづくのが志村立美、富永謙太郎、富田千秋という顔ぶれとなる。


はなばなしく活躍して、羽ぶりよかった時代はあったのだ。二科のボスとなった同窓の東郷青児も、その時代には酒をおごられていや。一緒に飲みまわっても、すべて勘定は富田もちだったとか。


だが、しだいに雲行きあやしくなってくる。『名作挿画全集』が昭和10年6月、平凡社から発刊される折のこと、編集担当で絵描き交渉にあたった古河三樹松が後年に語った、富田千秋が記録されてある。そっくり引用して、再現してみよう。


──富田は筆が遅かった。なかなか絵を描かない。締切りに行ってみると『きっと明日は描くから』という。また翌日行くと寝ている。起こして問いつめても朝まで麻雀をやっていたなんて、細君が帯びとり裸みたいな格好で出てきたものだ、僕も頭にきて、そのとき偶然であった学芸通信社の川合仁と『もうあんあ奴に頼むのはよそうじゃねえか』って言いあった。そのせいかどうかジャーナリスト仲間でも、だんだん仕事を頼まなくなったようだ──」(『名作挿絵全集5』)
とある。そのあたり無頼な生活姿勢、仕事の成行きの察しもつくではないか。」(つづく)