著者と挿絵画家が一体となって一本の小説を作り上げていくことを「画文協働」とか「画文共鳴」などという表現があるように、画家と作家が何か共有するものがある時には、本当によい作品がうまれることが多い。幼くして母を亡くしたどうしであったりとか、同郷人で趣味が同じであったりとか、その共通点がテーマの小説に出会うことは数少ないだろうが、傑作を世に残す大きなチャンスでもある。


田代光の代表作の一つでもある浜本浩「浅草の肌」(「東京日々新聞」昭和22年)もそんな著者と挿絵画家が一つになって作り上げた新聞小説のひとつだ。


「夕刊『東京日々新聞』が復刊したのは昭和二二年頃です。これは浜本浩さんとボクのコンビで当時の混乱した浅草を舞台にした小説『浅草の肌』が連載されました。この題をつけたのは『毎日』の長戸俊男さんです。話があったときには二、三日しか余裕がなく、一週間で読者を掴め、という大変な注文です。


第一回にはブラジャーなしの踊子の絵をかきました。これは評判が良く、新聞社から一日で読者がついたといって喜ばれました。しかし、原稿がギリギリなのにはよわりました。そのことを浜本さんに言うと、実はボクの絵を見ないと落ち着いて書けないのだ、と言うのです。絵を見て?やりやがったな、よし俺もやるぞ?というわけです。


つまり、作家と画家が紙上でよい意味の競争をしました。よく息が合うというのでしょうか、永戸さんは「作家と画家と読者とがこれほど一体となった例はない、理想的な形だ。」と賞讃してくれました。


舞台は浅草、ロック座は木戸ごめん、踊子とは親しくなる、身上相談をもちかけられる、といったぐあいで仕事そのものが楽しみでした。当時のロック座の座がしらは伴淳さんでした。かれは話好きでよく田舎芝居の話をしてくれました。しばらく行かないと座員に、『私は出られませんので、お暇でしたら遊びに来てください。』と書いた手紙を持たせてよこしました。


毎日新聞』の事業部が百枚の挿絵展を十日間三越本店でやりました。浜本さんがことばを書いてくれました。その間に七万人の客が来たといわれ、三越最大の記録といわれました。これは三越の新宿支店にも持っていかれました。


これを聞き知った浅草の坊さんが、『浅草が舞台なのに地元でやらないとは。』と言って商店街に働きかけ、三十万円の巨費を投じて松屋のこわれた壁をなおして十日間の展覧会を催し、ここでも大成功をおさめました。」(田代光『変手古倫物語』昭和56年)