田代光が、白日会に初入選し太平洋画会に通いだし、やっと画家への道を歩み始めようとした15歳の時に、父親が失業したため絵の勉強をやめ、家長として一家9人を養わなければならなくなってしまった。挿絵を描いて一家を支えようと決意し、光はその時から部屋にこもって挿絵の勉強を始めた。


16歳の頃、雑誌「キング」などからカットの仕事をもらえるようになり、『少年化学新聞』の口絵、挿絵、漫画、工作物など一切を描き月給20円をもらったこともあった。
 19歳のときに描いた野村愛正「光を行く」(「キング」)が連載小説の挿絵の最初だった。その後、久米正雄「青空に微笑む」(「少年倶楽部」)など、挿絵の仕事は順調にひろがっていったが、まだまだ家計は苦しく、21歳の時に父が他界する。


田代の仕事は順調だったが、画家としての基礎の勉強が出来なかったことが終生悔いを残すと判断し、苦しい家計をやりくりし、春陽会夏期学習に通い石井鶴三や木村荘八らの指導を受けた。太平洋画美術学校や藤岡絵画道場にも席を置いて勉強した。(続く)