「(非水)は明治30(1897)年5月、誕生祝いを終えて上京、麹町区平河町の岩井禎三(愛媛県出身。日本赤十字副院長を務め、伏見宮家の侍医となる)に身を寄せていたころ、「三棹」と号している。川端玉章先生には、岩井さんの知人で西洋木版画の大家合田清先生の紹介で会った。また岩井さんの口添えで合田先生の家を訪ねた時、来合わせていた黒田清輝先生に紹介された。その時の感激は大変なものであったろう。


玉章先生の塾に入門後、師の章をとり「芳章」と号したが、黒田先生に注意されて撤廃する。後に島根県の浜田中学校教員時代、子規派の俳句に熱中していたころに「翡翠郎」の俳号を付けたが、字画が複雑で近代的でなく、図案的にもかんばしくないので、字引の中から簡単でシンメトリーな「非」と「水」を選んで非水とした。


明治9(1876)年生まれの先生(*非水)は易学上では“水性”で、運命的にも合致したこともあって、東京中央新聞社入社(1905)以来、この雅号を生涯使われた。





晩年には「翡翠生」「丕酔子」といった雅号を作った。あまり発表されていないが、昭和25(1950)年の年賀状の句に「虎の子が大虎になる三ヶ日」に丕酔子の号がある。」(重信文雄「杉浦非水展によせて─余話」、『日本モダンデザインの旗手 杉浦非水展』たばこと塩の博物館、1994年)