明治文明開化のブームに乗るように、洋画家たちの挿絵ばかりが取り沙汰されるが、日本画家たちが影を潜めてしまったわけではない。多くの面で「明星」と対立関係にあった「新聲」も、独自の画文協力を打ちだしていた。


木俣知史「『明星』の表紙画」には
「単なる読者の争奪戦ということではなく、両誌は、多層的な対抗関係にあったと考えられる。まず、新派和歌の覇権争いという面があった。大田登氏は“地方文芸誌『よしあし草』(『関西文学』)おける、「新聲」「明星」両誌の主導権争い」があったと指摘している。次に、歌についての理念の違いということがあった。金子薫園は、『明星』の恋愛至上主義の歌風から距離をおいて、自然を写生することを重視していた。


さらに、歌についての考え方の違いは、美術にも連動していた。『明星』は結城素明平福百穂といった写実を重視する无声会の画家にも誌面を提供していたが、主力は鉄幹が発言しているとおり、西洋画の技法や知識に通じていた藤島武二ら白馬会の画家たちによってに担われていた。藤島に代表されるモダンな装飾性が『明星』の誌面のビジュアル・デザインの最も目立つ特性となっていた。


一方、『新聲』は、平福百穂を起用し、写生、写実を重視し、『明星』との個性の違いを打ち出そうとしている。『新聲』歌壇の選者として、写生を提唱した金子薫園は、その選歌を中心に収録した、尾上柴舟との共著『叙景詩』(1901〈明34〉・12)を新声社から刊行するが、巻頭の〈『叙景詩』とは何ぞや〉で『詩と画と、その極致に於ては、乃ち、一なり』と記している。


『叙景詩』は、結城素明や、平福百穂の風景スケッチを挿画として収載しているが、画文の共鳴という試みでも、薫園は鉄幹に対抗しているのである。文学と美術の提携という新しい試みの背後には、錯綜するメディア内での主導権の争奪戦という要素が潜在していたのである。」(木俣知史「『明星』の表紙画」、甲南大学紀要138、2005年3月)と、あり、薫園は鉄幹に対抗して、写生、写実を重要視して平福百穂を起用、『明星』とは異なる画文共鳴を追及した。


金子薫園と鉄幹は、落合直文の門下。金子薫園が短歌の選者としてかかわっていた雑誌「新聲」は、橘香左藤儀助が、1896〈明治29〉年に創刊した投書雑誌。金子薫園、平福百穂をむかえ、新和歌を重視し美術を生かした紙面作りを心がける「新聲」は、「明星」と競合する点を内蔵していた。


このような状況の中から吹き出した、「文壇照魔鏡」事件は、鉄幹に対する匿名の誹謗中傷文書だが、競合する雑誌の覇権争いに、一条成美が巻き込まれたともいえる。