藤島武二は、「蝶供養」「カット・下絵帖」「縮図帖」などのスケッチブックを残しており、これらに描かれた下絵を見ていくと、いかにたくさんの外国からもたらされたポスターなどの資料を目にしていたかがわかる。そして藤島武二がどんな画家に興味を持っていたのかを探っていくことができる。たとえば、「挿絵・スケッチ帖」の一部を広げてみると



藤島武二「カット・下絵帖」明治30年前後
ここに描かれている絵の元絵を探してみると「ジャポニズムアール・ヌーボー」(朝日新聞社ほか、1981年)に、スケッチに描いた元となるポスターを見つけることができた。このスケッチを描いた頃は、まだ洋行の経験がないので、藤島はどこかで誰かに見せてもらったことになる。そして、このポスターを持ち帰った人物こそが、日本にアール・ヌーボーを持ち込んだ人物の一人ということになる。



リュッセルドルフ・テオドール・ファン「ラ・リーブル・エステティク」1896年、ポスター、石版画
リュッセルドルフ・テオドール・ファンについて「1862年ゲント生れ。1926年サン・クレール没。ベルギーの新印象主義の指導的な画家であり、1884年には、芸術家グループ「レ・バン」(20人組)」の創設メンバーの一人であった。……1898年からパリに滞在し、1910 年にはサン・クレールに定住する。彼の友人には、画家の杏里・ヴァン・デ・ヴェルデとならんで、詩人のヴェルハーレンやメーテルリンクがいた。」(「ジャポニズムアール・ヌーボー」)


藤島武二「カット・下絵帖」



ザットラー・ヨゼフ「パンのための趣旨ポスター」1895年、色彩石版画
ザットラー・ヨゼフとは「1862年シューローベンハウゼン生れ。1931年ミュンヘン没。雑誌「パン」や「ジンプリッツィシムス」の寄稿家として知られる。これらの雑誌に、主に木版画や銅版画でもって版画の作品や連作ものを発表した。彼の版画の様式には、デューラー伝統と現代的要素が両立してあらわれている。」