なにより自分自身が、1911年、白馬会葵橋洋画研究所に入学して以来、1912年には、岸田劉生と知り合い、ヒュウザン会の結成に参加し、1915年、劉生たちと共に草土社を結成、1922年まで毎回出品する。1918年からは二科展や院展洋画部にも出品するようになり、院展出品作『二本潅木』で高山樗牛賞を受賞し、1922年には、春陽会創設に客員として参加。1924年、春陽会会員になるなど、生え抜きの〈上野〉の画家であるという自負が見え隠れしており、〈挿絵〉スクール出身なので生え抜きとはいえないが、清方も自分と同じ〈上野〉の画家の仲間と認めてもよい、と少々高所からの見方をしている風にも見える。
プライドの高い荘八には、これだけではない、文章としては書くに書けない理由があったはずだ。それは、絵のタッチは異なるが、清方が描く情緒の残る下町をこよなく愛惜し描いた風俗画風の挿絵に魅了され、自らもそんな清方風の下町の風情をテーマにした風俗画を描いている事を承知していたはずである。〈上野〉の画家とは云えども、挿絵画家出身である清方の真似をしているように思われることが、荘八には承服できないことだったのではないだろうか。
鏑木清方:画、「十一月の雨」(毎日新聞社主催『鏑木清方展』図録、昭和46年10月)より転載
鏑木清方:画、「築地川」(朝日新聞社『鏑木清方展』図録、平成4年)より転載
鏑木清方:画、「夏の武家屋敷」(毎日新聞社主催『鏑木清方展』図録、昭和46年10月)より転載
以下は、木村荘八描く「濹東奇譚」の新聞挿絵であるが、こうして清方の絵と並べて、背景の取り込み方、いつ、どこで描いたのかまで、あたかも写真で見るかのように下町の情緒や風情を描き込む手法などを見ると、清方をよく研究しており、単なるファンとして尊敬しているというだけではなくその傾倒ぶりがよくわかる。
木村荘八:画、永井荷風「濹東奇譚」その33(「東京朝日新聞」、1937年)