これが、もう一冊の『善太と三平』、小穴隆一装丁版。

内容は、版画荘版の続篇に当たるようなもので、内容の重複はなく、新たな話が17篇掲載されていた。



小穴隆一:装丁、坪田譲治善太と三平』(童話春秋社、昭和15年


提供: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』から小穴 隆一(おあな りゅういち)1894年11月28日-1966年4月24日の略歴を転載してみよう。長野県出身の洋画家、随筆家、俳人。俳号は一游亭。
「北海道函館市に生まれ、長野県塩尻市の祖父のもとで育つ。父は洗馬宿(現在の塩尻市洗馬)の旧家である志村家の出だった。
旧制開成中学校中退。太平洋画会研究所にて中村不折に師事。二科展には第1回から出品。のち春陽会に移る。
1919年、瀧井孝作に連れられて東京田端の芥川龍之介邸を訪れ、以後芥川の無二の親友となる。誕生日が芥川の母の命日だったため、芥川から「僕の母の生まれかはりではないかと思ふよ」(小穴隆一『二つの絵』p.127〈中央公論社、1956年〉)と言われていた。
1921年の『夜来の花』以降、芥川の著書の装丁を担当。1922年、親友芥川龍之介をモデルに『白衣』を制作、この作品を二科展に出品して話題となる。同年、芥川は次男が誕生したとき、隆一の名に因んで多加志と命名した。
1923年、脱疽のため右足を足首から切断。以後、義足を使用するようになる。
1926年、芥川が神奈川県鵠沼の旅館東屋の貸別荘「イ-4号」を借りると、隣接する「イ-2号」を借りて住む。「蜃気楼--或は「続海のほとり」--」に出てくる「O君」が小穴のことである。翌年、芥川が田端に引き揚げると、小穴も東京に戻った。
1927年、芥川が子供たちに「小穴隆一を父と思へ。従つて小穴の教訓に従ふべし」との遺書を残して自殺。以後、芥川の遺族と親しく交際。しかし芥川の甥である葛巻義敏とは険悪な関係だった。
1956年、著書『二つの絵』(中央公論社、1956年)の中で芥川が私生児だったという説を発表し、波紋を呼ぶ。その他の著書に『白いたんぽぽ』(日本出版協同、1954年)などがある。このほか、画家としては宮沢賢治坪田譲治の作品に挿絵を描いた。」


装丁は2冊共に個性的で面白く、絵の時代背景にも挿絵家の意向が強く反映されている。昭和初期の内容にもかかわらず、おじいさんの話に明治の頃の話も出てくるとはいえ、川上澄生の絵は挿し絵家好みの時代設定になっているように思える。とはいえ、何れものんびりとした時間の感覚を感じ取ることが出来、癒される思いがする。