『風の又三郎』の装画はなぜランプなのか?

私が『風の又三郎』を初めて読んだのは、小学校4年生の時で、読後感想文を書いたのをはっきりと記憶している。その後やはり4年生の頃に白黒の映画を観た記憶がある。そんな私が、普通に考えて表紙のイメージを思い浮かべると、まずモチーフとしては、タイトルから「風」か「又三郎」が登場する絵を思い浮かべる。それなのになぜか忠弥の装画にはランプが描かれている。


他社の『風の又三郎』を眺めてみると、大方は私が想像したような装画が描かれている。小穴隆一と忠弥だけがタイトルからは想像できないモチーフを使っている。小穴がモチーフにした馬は、半分ほど読み進むうちに、ああ、この場面が描かれているんだな、ということがわかる。藤城の装画にも馬が描かれており、馬はこの話のキーワードになっていることが理解出来る。

ランプという言葉も「世界じゅうどういうんだい。」と言う三郎の問い掛けに「「それだからランプも消さな。」「アアハハハハ。ランプはあかしのうちだい。」という会話があるが、ここが話のポイントとなるほどの重要なシーンでもないので、この会話からの連想とは思えない。


ランプは忠弥のお気に入りのモチーフの一つで、椎名麟三「永遠なる序章」(河出書房、1948[昭和23]年)を始めとして何度も装丁には登場している。忠弥ファンなのに忠弥の主張を否定するかのような結論になってしまって、忠弥には申し訳ない。






写真は上左から

宮沢賢治風の又三郎』(角川書店、昭和60年)装丁:藤城清治
宮沢賢治風の又三郎』(角川書店、平成5年)装丁:飯野和好

宮沢賢治風の又三郎』(角川書店、平成元年)装丁:日本ヘラルド映画
宮沢賢治風の又三郎』(新潮文庫、昭和60年)装丁:加山又造

宮沢賢治風の又三郎』(羽田書店、昭和14年、復刻版)装丁:小穴隆一


宮沢賢治風の又三郎』少年少女日本の文学21(あかね書房、昭和42年)


忠弥は「……その主人公(中心)を、わたしなりの姿として設定しないように注意します。なぜかと申しますと、そのひとつの小説は、百人の読者に百様に読まれるに、ほかならないからであります。ひとりの画家がそれを独善なひとつの型にはめこんでしまうことは、その文章にとってもよくないことであり、読者にとっても不幸なことだと思います。とくに子どもの読書においては、このことは意外に重大なことがらだとおもうのです。」(『世界少年少女文学全集』第11巻)
というのが忠弥の主張で、又三郎が描かれなかったのもその辺の主張があったものと思われる。


また「ふくみをのこすというたいへん、ちょうほうなことばがありますが、さし絵はある意味で、急所を射とめたふくみを、持っていなければいけないと思います。その文章に勝ってもいけないし、そうだからといって負けてしまってもいけないのです。いつも引きわけぐらいのところで、すもうをとっていないと、どちらも生きて残りません。さし絵はあくまでさし絵であって、タブローではないというのが、わたしのさし絵についての意見であります。」(前掲)と、具体的なモチーフをストレートに描くのではなく、ふくみのある装画、さし絵を心がけていたようだ。




上記の写真2点は、忠弥が描いた宮沢賢治風の又三郎』少年少女日本の文学21(あかね書房、昭和42年)のカラー口絵(上)と文中に挿し込まれたカラーさし絵(下)だ。三郎は小学5年生のはずだが。