そうしたら、その年の暮れになって、[朝日新聞]から、明くる昭和六十年二月から城山三郎さんの『秀吉と武吉』の挿絵をお願いできないか、という依頼があったんです。これは、豊臣秀吉と瀬戸内水軍の元締め、武吉が絡む話のようでした。」(前掲『挿絵画家・中一弥』)と、同時期に二つの依頼が飛び込んできた。
私の場合ですが、装丁家は著者と会うことはほとんどありません。が、さすがは挿絵画家ですね。編集者からではなく執筆者から直接電話で依頼があるとは。そういえば、先週掲載した『渡辺格追悼文集』の打ち上げに、執筆者ではありませんがご遺族からお誘いを受けていますがね。
義理人情を大切にする中一弥氏の悩みは深く、この辺の詳しい話は末國善己『中一弥』(集英社、2003年)を読んでいただくとして、結果は「僕が息を吹き返したのは、なによりも池波さんのお蔭だったし、その池波さんとの約束を破るということは、僕の感覚としてはできませんでした。仕方なく[朝日新聞]にお断りを入れたら、じゃあ、またの機会にお願いします、と言われました。その後、城山さんには丁重にお詫びの手紙を書きました。そうしたら、城山さんから、気にしないでください、という丁寧な返事が届いたんです。」(前掲『挿絵画家・中一弥』)と、一件落着でしたが、話はこれで終らずに続編がありました。
「ところが、[産経新聞]の方は、池波さんのスタートが遅れて、四月の予定が八月になったんです。城山さんの『秀吉と武吉』は、八月で終りました。だから、[朝日]が終ってからでも、[産経]が描けたんです。あのときはつらかった。城山さんには申し訳ないし、かといって、池波さんには文句を言えない。池波さんがその事情を知っていたかどうかはわかりません。その後[産経新聞]の方が、気を遣ってくれて、原稿料の点で少し償いをさせていただきます、と言ってくれました。あれだけ悔しい思いをしたのだから、倍ぐらいに上げてくれてもいいじゃないかと思っていましたが、さすがにそこまではいきませんでしたね。」(前掲『挿絵画家・中一弥』)。新聞連載小説の場合はふつう3〜4ヶ月前から依頼があるらしい。
昭和60年といえば中氏は74歳の時だ。この年齢で、ダブルブッキングになるほど引き合いがあるとは、人気のほどがうかがわれ、何ともうらやましい話である。
ちなみに、この年に中氏は「日本出版美術家連盟」の会長となり、平成12年まで会長を続ける。あす、私はこの「日本出版美術家連盟」の会員として入会するための面接を受けることになっている。まさか、入会試験はないだろうな?