挿絵の黄金時代の誕生

匠秀夫によると、挿絵の黄金時代を迎えるきっかけは「関東大震災(大正十二年=一九二三)は、さまざまな局面で時代の転換のメルクマール(*指標)になっているが、挿絵史の分野においてもそれがいえる。大衆ジャーナリズムの展開がこの時期であり、そのリーダーは新聞であった。発行部数の増大──大阪毎日新聞大正元年の二十八万部から十三年には百万部を突破している。──もさりながら、月刊が常識であった雑誌界に、より時事的な週刊誌をもたらしたのも新聞であった。(『週間朝日』『サンデー毎日』は大正十一年創刊)。


「雑誌界では明治、大正をリードした博文館に、大人から子供まで、もれなく読者を吸収すべく、各種の雑誌を大部数で発行する野間清治講談社がとって代わるようになるのもこの時期であった。


こうした新聞、雑誌のにぎわい、大衆ジャーナリズムの展開から、挿絵のいわば黄金時代が訪れるようになったのが、大正末、昭和初期であった。大正後期になって、挿絵に洋画家が進出するようになって、美人画系の日本画家と肩を並べるが、大正十五年の岩田専太郎の登場によって(吉川英治鳴門秘帖』、大阪毎日新聞)、これらのほかに挿絵専門家が世に現れることになった。」(匠秀夫『日本の近代美術と文学』沖積舎、昭和62年)と、関東大震災とマスメディアの誕生だったとしている。



挿絵:岩田専太郎鳴門秘帖」(大阪毎日新聞、大正15年8月)