昭和9年の『石井鶴三挿絵集』に引き続き、昭和18年に『宮本武蔵挿絵集』を刊行


巻末に石井鶴三は「小生は前に一度挿絵集を出版したことがあるが、其時は不幸にして、本文作者との間に挿画に対する見解上相合はざるものありて、勢い其の出版が挿画の著作権を強調する如き性質を帯ぶるに至ったのであるが、此度の出版に於ては、かかる事もなく和気の中に実現するを得たのは、まことに喜ばしく思ふものであります。」と、著作権を主張するがために刊行したようにも思える発言をしている。



宮本武蔵挿絵集』(朝日新聞社昭和18年)は「昭和13年1月より翌14年7月まで東京大阪良毎日新聞紙上に連載されたる、吉川英治氏作『宮本武蔵』空の巻二天の巻圓明の巻の挿絵として描けるものの中より、三百十八枚を選み版を新たにして上梓せるものであります。」


「画の傍に本文中より其画に関はるところ多き数行を抜いて添へることに致したのは、この画集を本文の挿絵として観る場合、一層興味あるべしとの出版者側の意見にしたがつたもので、もとより本文作者の承諾を得て之を為したものであります。」と、わざわざ、これ見よがしに本文を引用していることの断り書きを「巻末に」に書いている。




大菩薩峠』の挿絵の著作権を巡って争った中里介山は1944(昭和19年)4月28日に59歳で腸チフスにかかり急逝するが、『宮本武蔵挿絵集』刊行時には存命だった。そんな中里の存在をしっかりと意識しての「巻末に」であることは間違いない。


というよりは、吉川英治はおおらかに文章の掲載も許してくれた、と、中里介山に向けての著作権問題に関するとどめを刺した出版でもある。



この本を出版する前に「熊本市で開催された宮本武蔵に関する展覧会に出品され挿絵原画のうち、最初の十枚程が出陳中に盗難にあったことで、この書き直しには随分苦労されたようであった。」(「現代名作名画全集第二号月報」、六興出版社、昭和29年)


新聞掲載した挿絵と『宮本武蔵挿絵集』に掲載されている挿絵は一部が描き直されているというのだろうか。これにはちょっと食指がうごいた。比較してみたくなったのだ。