桜井均のこだわりなのか、著者の辻克己が装丁したのだろうか、この図案シリーズの表紙はモダンだ。





昭和初期に浩文社から刊行されたころの装丁とは、打って変わってモダンな装丁に変わっている辻克己『現代図案カット大成』(大同出版、昭和24年)。本文中のカットが昭和初期のものと同じかどうかは確認していないが、モダンなものが多い。私は、この辻克己については、もう30年も前から名前だけは知ってはいたがどんな人物かは全く知らなかった。


本文中の絵は印刷物を集めたものだろうが、感性がモダンでかなりの人物であったもではないかと思っていた。しかし、辻についての文献は中々見つからなかった。


著者の辻克己については、ご息女・白井多摩子さんが『昭和モダンアート2 辻克己「現代図案カット大成」復刻版』(MPC,2004年)に序文「復刻に当たって 父を偲ぶ」として父・辻克己の思い出話を書いている。これは出版史やデザイン史に興味を持つものにとっては大変有難い文章であり、辻を知るための貴重な内容なので、ここに引用させていただく。


「……明治25年4月、群馬県高崎に高崎藩の藩士の三男として生まれた父はキリスト教徒となったが両親が家臣らと共に札幌在に入植しエマヌエル村と呼ばれた信者達の自給自足の地を創設したのに連れられて北海道に渡った。祖父は、慶応大覚野前進であった洋学塾にも学ぶなど、かなり進取の人であったらしい。北海道での父は、学校時代を終えたあと、イギリス人の宣教師に預けられたりしたが、キリスト教を信ずる周りの人々の考え方、生き方に疑問を抱き、聖書より文学に興味を持ち、次第に芸術に親しんでゆき、ついに画家を志して上京した。


その後、色々と色を変えながらもデッサン・油絵の勉強を続け、分子・画家達との交流を深めていった。大正7年武者小路実篤の率いる新しき村の発足時に、その発起人の一人として岸田劉生・荻原中、木村荘太らと九州日向の新しき村の本部での共同生活を始めた。その後、村の美術部員としての活動を行いながら、年に一、二度の個展を開いたりしていたが、祖父の血をひいてか、時代の先へ先へと目を向け、現状に飽き足らぬ性格のため、保守的な同年代の人々の中で付き合う友人達も次第に限られていったようである。


……父の友人が懐かしそうに話していたのが、昭和初期に高円寺で開いていたという「静かなるドン」というクラシックを聞かせる喫茶店のことである。ドア、窓などの外装から、内装はテーブル・椅子にいたるまで全部父の手で造られ、当時は大変モダンな店で文士や画家、詩人達のたまり場として愛されて板という。


私がもの心ついてから、つまり晩年の父は文字通り貧乏絵かきであった。絵も従来の画き方から脱皮すべく新しい表現方法に苦労した末、次第に単純化していった。色彩も世の中に無神経に色が氾濫しすぎることに反撥して、モノトーンを基調とするようになった。結果として、一般には売れない絵になっていったのである。考えてみれば父は一度も売ろうとして絵を画いたことはなかったように思う。それでも一部の理解者から買い手がつき、一つ二つと売れていた。


その後、武者小路実篤が会長となって再発足していた大調和会の会員となり、年二回程度の会の展覧会に出品する等の制作を八十過ぎまで続けていた。常に時代の先端に目を向け、芸術家特有の激しい気性を持った父は、絵のみに没頭せず世の中の動き、社会のシステムにも進んだ考えを持ち、トロッキーマルクス等にも関心を示した。


……父はずい分前から図案や広告デザインに興味を持ち、広告会社の美術顧問をしていたこともあり、ポスターやディスプレイ等にかなり斬新なアイデアを提供していた。現代図案カット大成を出版することになってその原稿を整理していた頃の父は実に楽しそうであった。いつものように口笛を吹きながら目を細めたり、あちこち場所を変えたりしては几帳面に割り付けをしていた。」


と、「新しき村」や「大調和会」にかかわっていたとは驚いた。