大分脱線してしまいました。


辻克己『図案広告資料大成』(大同出版、昭和25年)の発行人が櫻井均であり、出版社が大同出版であるということに動転し、キネマ文字のことを忘れて、大同出版にのめり込んでしまいました。おかげで、なかなか書けないでいた「本の手帳」12月号の原稿「櫻井書店と大同出版」を書くことができました。発売は12月1日の予定です。


さて、横道にそれている間に面白い本を見つけた。
カタログハウス編『大正時代の身の上相談』(カタログハウス、1994年)
が、その面白い本だ。といっても文章を読んだわけではない。昔の新聞広告が沢山掲載されている。さらに、それらが新聞に掲載された日付もしっかりと記載されているのが資料性を高めている。



小さな広告が沢山記載されていて、当然あの創作図案文字もブランド名や企業名として登場してくる。
ちなみに、「身の上相談」が初めて新聞に掲載されたのは、大正3(1914)年の読売新聞「よみうり婦人付録」という頁だそうだ。

そこの話は飛ばして、今度はまっすぐに図案文字を探してみよう。

・スマイル(大正6年
理研ビタミンA(大正5年)
・嘆きのピエロ(大正11年)…日活館、葵館
月形半平太(大正5年)……上野鈴本キネマ






ここまで書いてきてちょっと不安になってきた。これらの広告と「身の上相談」が掲載された日付とはなんの関係もないのではないかという不安だ。カット代わりとして、多少関連ありそうな当時の新聞広告を年月など関係なしにランダムに掲載しただけなのかもしれない。「月形半平太」や「歎きのピエロ」の文字が完成度が高く、昭和になってからのものではないかとも思われるからだ。


そう思って、「月形半平太」が上演された「上野鈴本キネマ」について調べてみた。
すると、
「広小路町11番地には「鈴本キネマ」があった。区内に於ける最古の寄席で、安政年間鈴木龍助が起こした講談専門の「本牧亭」が始まりで、明治9年に創業者の「鈴木」と「本牧亭」のから1字づつとって「鈴本亭」と改称し色物寄席場として人気を博していたが、震災後、この地図の反対側(現在の鈴本演芸場がある所)に鈴本亭を再建、もとの鈴本亭は映画館「鈴本キネマ」とした。」(台東区の「明治.大正.昭和」より)
とあり、「上野鈴本キネマ」は震災後にできたようだ。


主演の沢田正三郎は明治25(1892)年に生まれているので、大正5年には24歳だから、あり得ないわけではない。
監督の牧野省三1878年9月22日-1929年7月25日)は、大正5年には38歳になる。びみょ〜ですね。

ちなみに牧野省三とは、
京都北部の北桑田郡山国村(現・京都市右京区)に生まれる。父は、明治維新時の民兵組織「維新勤皇山国隊」の隊長「藤野斉」、母は義太夫師の「竹本弥奈吉(牧野やな)」。非嫡出子であったため母の手で育てられ、幼少時から芸事に親しみ、母親の経営する寄席の高座で芝居ごっこに興じて過ごす。その後、母親が洛西に「千本座」という小劇場(後の千本日活)を手に入れると、そこの経営を手伝いながら、時折高座で義太夫や芝居を披露した。
 1908年、千本座で活動写真の興行をしていた横田永之助から映画制作を依頼される。横田よりカメラとフィルムを借り受け、当時千本座の舞台に上がっていた中村福之助や嵐璃徳の出演で、『本能寺合戦』を撮る。これが日本最初の劇映画になる。日本最初の映画監督であり、「日本映画の父」とよばれている。


もう一つ、「嘆きのピエロ」を調べてみると
原題:Masks and Monsters La Galerie des Monstes
製作国:フランス
製作年:1924(大正13)年
配給:ヴェスティ
監督:Jaque Catelain ジャック・カトラン
この映画の新聞広告のようで、どうやら『大正時代の身の上相談』の柱に記載されている年月日は、「身の上相談」が掲載された日付であり、カットとして記載された広告の絵柄は単なる飾りで年月は不明。そんな意味での資料性はないということがわかった。不安が的中してしまった。「がっかりだよ〜」(桜塚やっ君)
「な〜んだ、大枚はたいて買ってきて、折〜角ここまでやったのに〜!」ルー大柴になりそうです。


折角だから
創作図案文字を使った広告の画像だけでも楽しんじゃいましょうか。







最後のカルピスもどきがかわいいですね。