どんどん掲載します

椎名麟三『永遠なる序章』(河出書房、昭和23年)cover
椎名麟三『永遠なる序章』(河出書房、昭和23年)扉
忠弥の装丁でヌードは珍しいので、扉の絵も掲載してみた。



ついでに、たまたま見つけた忠弥のヌード装画を使った表紙も掲載してみた。
・「文芸首都」第19巻第2号(文藝首都社、昭和26年)



忠弥の装丁ではヌードが珍しいだけではなく、人物が登場することさえも比較的少ない。
忠弥には、独自の装画・挿絵に関するこだわりがあり
「文章にさし絵をつける場合、わたしはまず最初に、その文章の中心になるものを、みつけるために、その文章を吟味します。けれどわたしはけっして、その主人公(中心)を、私なりの姿として設定しないように注意します。なぜかと申しますと、そのひとつの小説は、百人の読者に百様に読まれるに、はかならないからであります。ひとりの画家がそれを独善なひとつの型にはめこんでしまうことは、その文章にとってもよくないことであり、読者も不幸なことだと思います。とくに子どもの読物においては、このことは意外に重大ことがらだと思うです。」(「ひとつの偶感─さし絵のこころについて─」『世界少年少女文学全集』第11巻)と、登場人物のキャラクターを固定してしまうことで、読者のイメージまでもが固定されてしまうことを危惧しているようだ。


しかし、最近読んだ祖父江慎「坊ちゃんの顔100年」(graphic/design創刊3号)には、「子どもの頃は、小説を読むのがかなりにがてだった。登場人物の名前が出てくると、いきなりそこでつまづいてしまう。その人物の顔が思い浮かばないからだ。とりあえずは、どんな顔だっていいようなものの、気になってすすめない。ただ、主人公の絵がどこかに入っていさえすれば、とりいそぎそこから始められる。絵って助かるよなっておもった。」と、忠弥とはまるで反対の意見もある。


祖父江氏は108点の絵葉書に描かれた坊ちゃんの顔を掲載して、それぞれが、それぞれのイメージをもっていることがわかる。これだけ並べてもこの中に祖父江氏のイメージする坊ちゃんの顔は見当たらなかったという。


この例をみてもわかるように、私は忠弥のさし絵に対するこだわりは杞憂だったのではないか思う。そしてもっと気楽に人物を描いて欲しかったといまさらながら思っている。私の中では『伊豆の踊り子』は吉永小百合であり、宮本武蔵北大路欣也だが、それはそれでいいと思っている。


私の宮本武蔵像は、その後多くの人が演じている映画などを見ているが、どれも宮本武蔵であり、選択肢がたくさんあって、むしろ特定の人物によって演じられたものだけに規定されて宮本武蔵像を創りあげているのではなく、一乗松の決戦ではあの俳優が良かったな、巌流島では……なんてシーンによって演者が違っていながら一つのイメージを作り上げている。けっして、最初に見た挿し絵が一生その物語の読者のイメージをを支配するわけではない。


細川隆元『大狸小狸』(信友社、昭和32年





・土師清二『るむ女』(宝文社、昭和32年