文芸作品とともに進化する装丁 その1

──『機械』の装丁から『時計』の装丁まで──

先週、高円寺古書市で、横光利一『機械』(白水社、昭和6年4月10日発行、初版)を500円で購入した。函付きでこの価格は、かなりの掘り出し物ではないかと思って喜んでいる。




帰宅してから、もう1冊の横光利一『機械』(創元社昭和10年3月15日発行、初版)とを並べて眺めてみた。
 発行日には約4年間の時間の差があるが、同じ内容のこの2冊の本の間に発見できる外見上の違いはたくさんありすぎて、むしろ共通点がない、といったほうが2冊の間にあるであろう特徴を一言で済ますことができる。



 例えば、白水社版は菊判函入り糸かがり上製本であるが、創元社本は四六判並製中綴ジャケット付き、前者は表紙も箱も4色刷で装画付きであるが、後者は表紙もジャケットも1色刷で装画なしである。同様に表紙のタイトル文字はフリーハンドの手書きで著者名も出版社名も同様にフリーハンドで書かれているが、もう一方の創元社本のタイトルはフリーハンドではあるが、定規を使っての直線的なイメージで書かれ、著者名や作品名は活字で印刷されている。


 いま一番興味を惹かれているのは、このタイトル文字の違いである。いずれも佐野繁次郎によって書かれた文字だが、創元社版のジャケットは白い厚手の和紙にスミ1色で印刷され、白水社版で観られた装画などの装飾を一切取り除いている。


 私のように些細なことをとりたてて意図的に意味を見出そうとしなければ、それぞれの出版社の事情がそのような装丁を作らせただけの事として済まされるだろう。創元社版に観られる造本上の特徴は『機械』だけのものではなく、同様の装丁で谷崎潤一郎『新版春琴抄』(創元社昭和9年12月初版)、瀧井孝作『無限抱擁』(創元社、10年9月初版)があり、シリーズものの1冊であるためなおさら『機械』にだけ見られる特徴であるとはいえないかもしれない、との言い分にも理があるのは認めざるを得ない。




余談になるが、いったい誰がこの中とじの単行本をやろうと思ったのか? 少なくとも谷崎潤一郎は『新版春琴抄』(創元社昭和16年)を再版するに当たって中とじではなく、樋口富麻呂装丁で普通の函入り角背上製本糸かがりに変更してしまったのだから、この造本を気に入っていなかったことは確かだ。

しかし、発行日が一番早いのは『春琴抄』なので、『春琴抄』を発行する時にこの中綴じを採用したのではないかと思われる。(つづく)