マスメディアを操る夢二

shinju-oonuki2005-07-11

  恩地孝四郎が師と仰いだ竹下夢二は、大正抒情画を描く夢二ではなく、複製美術の寵児として活躍する夢二だったに違いない。夢二は明治43年に最初の画集となる『春の巻』を刊行する。翌44年には『夏の巻』『花の巻』、さらに45年には『野に山に』など次々に画集をだして、たちまち人気の挿絵家になった。
 
 夢二は荒畑寒村の紹介で堺利彦平民社に出入りして、雑誌『直言』『光』『平民新聞』など社会主義的なメディアにコマ絵を描いたのが、挿絵家としてのデビューであり、正に複製美術の画家としての出発だった。画集を出したのと同じ明治43年から『月刊夢二カード』を毎月刊行し、数ヶ月後には、半月ごとに発行するようになった。
 
 紅野謙介美人画に託すメディア戦略の妙』(『メディア社会の旗手たち』朝日新聞社、1995年)には「社会主義との関連はやがて『大逆事件』(1910年)など国家による弾圧が強まり、絵の人気が高まるにつれて解消されてしまうが、経験としての社会主義は夢二にメディア戦略をめぐる認識を与えたはずである。いかにして読者の心をつかみ、メッセージを与えるか、社会主義というかたちで訪れた政治参加は表現者にそうした自覚を強いた。」といっている。夢二はメディア戦略を意識して、自らをスタートへと育てていく名プロデューサーでもあったのである。
 
 さらに、紅野は「最初の妻岸たまきは東京・早稲田鶴巻町の絵葉書屋の店主であった。女性関係の多かった夢二は、このたまきと付いたり離れたりという生活をくりかえすが、彼女は夢二に美人画のインスピレーションを与えた最初の女性であると同時に、夢二ブランドの小品をさばく営業担当でもあった。これを明かすのが、1914(大正3)年に、夢二が日本橋呉服町に開かせた『港屋絵草紙店』である。たまきを主人としたこの『港屋』こそ、まさにデザイナーズ・ブランドの店だったと言えるだろう。」と言っているように、複製技術時代に相応しい大量生産、大量販売を見据えた夢二式事業が展開されるたのである。
 
 「港屋」の開店に駆けつけ手伝いをして、「月映」の編集が出来ず発行が遅れてしまったようだが、それほどまでに夢二に身を挺して尽くしていた恩地の「月映」に発表した作品には、師と仰ぐ夢二調の版画は全く見られなかったのである。つまり、「港屋」で恩地が寄せた夢二への憧れは、画家としての夢二ではなく、新たな時代のメディアの旗手としての夢二への憧れだったにちがいない。 
 
書影は「月映」VI、『恩地孝四郎 色彩と形の詩人』(読売新聞社、1994年)より転載