大貫伸樹の続装丁探索4

shinju-oonuki2005-06-14

 恩地の幸運はもう一つある。多くの美術運動に出あったことだけではなく、アールヌーボー様式の影響をあまり受けていないということである。恩地が美術学校に進む頃には、アールヌーボーの全盛期は過ぎ去っていた。明治34(1901)年の第6會白馬会展が、アールヌーボーのブームを作ったともいわれている。

 恩地が師と仰ぐ夢二は、アールヌーボーの洗礼を受けて、独自のスタイルを生み出した。しかし、一度、そのスタイルで名声を博してしまうと、ブームが去っても、なかなか抜け出せないものである。まして、受注生産の場合は本人の意思には関係なく抜け出すことを許してもらえないのである。
 柳原良平サントリーアンクルトリス」のイメージから抜け出せないのも同じようなことではないかと思われる。
 
 夢二にあこがれた多くの美術家たちは、絵の中に詩を含んだような表現の抒情的絵画であるが、中学生の頃に『夢二画集 春の巻』にであった恩地は「私は何だかあなたがなつかしいのです。私はこの画集を得たのを心から嬉しく思っているのです……詩のような画という点に於て貴兄の価値を認め、懐かしく思ったのです」とその心情を手紙に託して伝えた。しかし、まもなく新たな美術運動との出会いがあり、すぐに夢二スタイルを追うのをやめ、独自の創作の道を切り開くことになる。

 夢二もそのことにすぐに気がつき、ほぼ同時に新興美術運動を勉強し始めるのである。恩地の夢二に対する尊敬は変らなかったとしても、夢二の意識の中では明らかに、師弟逆転現象が起きていたに違いない。つまり、夢二が恩地に対して、一目置き始めるということである。
 
書影は竹久夢二装丁竹久夢二『春』(研究社、大正15年)。