大貫伸樹の続装丁探索-2

shinju-oonuki2005-06-07

3つ目のデーターは、「美術新報」(通巻百五拾九号、大正5年4月)「雑報」で、
「■日本美術協會の成立 齋藤五百枝、齋藤與里、川上凉花、川村信男、恩地孝四郎、藤井達吉、其他諸氏の發起に係る同會は美術家同志の自治圈にして美術に關する諸種の研究をなし第一回展覽會を四月二十一日より三十日迄赤坂紀伊國坂下山田耕筰氏楽堂に於て開く由假事務所府下?鴨宮仲二二三一齋藤五百枝方。」とある。

 この頃の恩地は、身の回りにさまざまなことが起こり、心身ともに不安な時期でもあり多忙な時期でもあった。
 大正3年8月に父轍が宮内省式部職を退官することに恩地の実家は、麹町の屋敷を引き払い、小田原市十字四丁目お花畑905番地に転居。そのため恩地は上野池ノ端の上野倶楽部へ入り、寄宿していた婚約者の小林のぶは、学校の寄宿舎に移った。9月、洛陽堂から「月映」200部を刊行。10月、夢二の湊屋開店。第一回湊屋展覧会開催。
 
 大正4年7月、週末コンクールで、教官・和田英作の作品批評に腹を立て教室を飛び出しそれ以後通学しなくなり、学校から放校通知が届く。8月東京美術学校へ退学届けを出す。9月、武者小路実篤『向日葵』(洛陽堂)の装丁の依頼を受ける。生計を立てる為に装丁の仕事をやり始めたのはこの頃である。
 
 装丁を始めるきっかけは、結婚を控えて、経済的に自立したいと思っていた事が大きかったに違いない。版画では食べていくことが出来ないことを知っていたから、なんとか夢二が『どんたく』できっかけを作ってくれた装本の仕事をものにして、この業界で生計を立ててみようと本気で取り組んだのだろう。「月映」の刊行に関しては、編集作業から装丁、営業、経理などの雑務まで恩地ひとりが頑張った背景には、病んでいる田中の分までという厚い友情のほかにも、止むぬ止まれぬ事情があったのである。
 
 大正5年4月に恩地は25歳で、姉・加壽恵の教え子である小林のぶと結婚式を挙げた。田中恭吉から、恩地とのぶへの献辞のあるペン画集《心原幽趣I》を贈られる。同年3月に日本美術家協会設立、4月に第一回展を開催した。6月には室生犀星萩原朔太郎、が創刊した詩の同人雑誌「感情」の装丁を担当し、終刊の32号まで殆どを恩地が装丁している。10月には、朋友田中恭吉の訃報を受け取る。
 
書影=恩地孝四郎装丁「感情」(感情詩社、大正8年)。挿絵にはマルクなど新興美術運動の影響が見られる。