ビアズリーが、オスカーワイルド『サロメ』(ボドリー・ヘッド社、1894年)の挿絵を依頼されるきっかけとなったのは、1893年4月に発表されたばかりのワイルドのフランス語版戯曲「サロメ」に触発されたビアズリーが、美術誌「ステューディオ」創刊号の表紙に、「クライマックス」の原型とも見られる「サロメ」の一場面「ヨカナーンよ、私はおまえの唇に接吻した」というセリフを書き込んだ絵を自主的に描いたことである。
これを見たワイルドは、ビアズリーの芸術と自身の戯曲との間に強い類似性を感じ、感動し献辞の手紙を送ったのである。面識もない見知らぬ新進の画家に献辞を添えた本を送ったのであるから、ビアズリーに対していかに強い関心を抱いていたかがわかる。
「サロメ」の挿絵は、ほとんど白黒で描かれたペン画で、プロポーションのデフォルメ、浮世絵のような白と黒のスペースの巧みな対比、非現実的な怪奇趣味などの特徴を持って描かれており、ビアズリーの短い生涯のなかで描かれた、最高傑作であり、全作品の中で最も創意にあふれた様式が展開されている。
ところが、1895年4月にオスカー・ワイルドが同性愛の罪で逮捕され、雑誌「イエロー・ブック」にワイルドは関わっていなかったが、「サロメ」の挿絵以来、ワイルドと同一視されていたビアズリーは、英国の世論から激しく非難を受け、同誌からの追放処分を受けることになる。
翌96年にはパリに居を構えるが、喀血するなど健康状態の悪化により次第に借金がかさんでいった。97年に刑期を終えたワイルドとフランスで再会し、装丁を頼まれるが、ワイルドのせいで職を失ったビアズリーは、そのことを恨みに思っており、装丁の依頼を断った。同年末に南仏のマントンに転地するが時すでに遅く、98年3月16日、結核を患い同地にて25歳という若さで逝去する。