ビアズリーは、ビアズリー:画、トマス・マロリー『アーサー王の死』( J.M.Dent.London、1892-93)に、20枚の1ページ大、および2ページ大の挿絵、550点に近い縁飾り、装飾、各省の見出し、頭文字、小カットを描いた。この仕事は1年6ヶ月にわたり製作したもので、1893年中頃から毎月1回、2シリング6ペンスで1分冊ずつ発行された。発行後、ビアズリーの装画を金泊挿にした豪華なデザインの表紙で、2冊本に装幀され刊行した。挿絵やカットの膨大な量もさることながら、斬新さと質の高さによって、ビアズリーの名を世間に知らしめることになった。これがビアズリーの実質的なデビュー作である。
無名だった画家ビアズリーをこの豪華な本の挿絵画家へと導いてくれたのは、ビアズリーが足繁く通ったクイーン街にあるフレデリック・アンド・エヴァンズ書店の主人フレデリック・エヴァンズでした。会話を交わすようになったビアズリーは、絵を描いていることを明かし、ある日、数枚の見本を持ってきた。その結果、ロンバート街の保険会社に勤めるやつれ顏で気の弱そうな少年ビアズリーは、時々持ってきた1枚の絵と交換に1冊の本を持っていくことを許されたのである。エバンズはこうして集めた、1束の絵を、エバンズは友人の出版業者J.M.デントに見せた。デントがマロリー『アーサー王の死』の新販を中性的精神にふさわしい挿絵を入れて一般読者に訴えるような形で出版したいという話を聞いていたからだ。それも、バーン・ジョーンズほどに金のかからない画家の挿絵でという。
エバンズは、偶然を装って、デントとビアズレーの顔を合わせた。そして、見本として、『アーサー王の死』の挿絵を1枚描いてもらってから契約を結ぶことになる。ビアズリーはデントが考える中性風ということについて知識がなかったので、ウイリアム・モリスがケルムスコットプレス出版社のためにデザインした本をエバンズに見せてもらい、頭文字、縁飾り、章頭飾りなどを研究した。数週間後に、デントの事務所に『聖杯発見』を持って行った。デントは、大いに感激し、250ポンドで、『アーサー王の死』のたくさんの挿絵の仕事を依頼した。