昨夜、帰宅途中、片付はじまった閉店寸前の新宿サブナードの古書市に立ち寄り、偶然にも最初に手にした本が今一番欲しかったビアズレーの BEARDSLEY'S LE MORTE DARTHUR (『アーサー王の死』)だった。ウィリアム・キャクストンによる題名『アーサー王の死』は、このトマス・マロリー版原書(全8話構成)の最終第8話の題名「円卓の騎士たちの分裂とアーサー王の死」から、その一部を借用したもの。僅か数分間で迷わず購入した。


BEARDSLEY'S LE MORTE DARTHUR (『アーサー王の死』) 表紙



BEARDSLEY'S LE MORTE DARTHUR (『アーサー王の死』) 扉


アーサー王の死』の仕事は1891年、肺病に冒されていたビアズレー18歳の時、姉のメイベルに強引につれられて、誰の紹介もなくバーン・ジョーンズの画室を突然訪問し、自作の絵「聖金曜日の夕べ聖ヴェロニカ」と「コン・グランデ・デ・ラ・スカラ邸におけるダンテ」の2枚を見てもらうことに端を発する。作品を見せたところ、才能を絶賛され、勤めを辞して画家になることを勧められる。その時、偶然にもオスカー・ワイルド夫妻も訪問しており居合わせることが出来た。


その後、ホイッスラーが室内装飾を手がけたフレデリック・リーランド邸の食堂「孔雀の間」に出会い、ジャポニスムの影響を受け大胆に浮世絵を背景に取り入れた「孔雀の間」に魅せられ浮世絵版画に興味を持つ。


バーン・ジョーンズと浮世絵との出会いによって、中世への目を開き、浮世絵のエロティシズムを画法に取り入れようと苦心しているところへ、1893年、偶然にも『アーサー王の死』の挿絵の仕事が舞い込む。


アーサー王の死』の新版を出版するに当って、J.M.デントは、中世的精神にふさわしい挿絵を入れたいと思っていたが、バーン・ジョーンズのような大家でなく、製作費の安い新人を探していた。ちょうどそんな時に、行きつけの書店の主人フレデリックエヴァンズの紹介で出版業者J・M・デントに会うことができ、ビアズレーには大きな幸運が訪れることになった。トマス・マロリー作『アーサー王の死』(Le Morte D'arthur)の挿絵を以後約1年半にわたって描くことになる。


ビアズレー:画「アーサー王に名剣エクスキャリバーのことを告げる湖上の美女」(『アーサー王の死』)



ビアズレー:画「眠るランスロットを見つけた四人の王妃」(『アーサー王の死』)


ビアズレーの絵というと後期の作品が紹介されることが多いので、良く知られている「サロメ」の繊細な線や大胆な空間構成のイメージを思い浮かべるが、『アーサー王の死』はそれとだいぶ異なる印象があり、ウィリアム・モリスやウォルター・クレインの作品に近く、初期の作品であることを納得させられる。



ビアズレー:画「孔雀模様のスカート」(「サロメ」)、後期の作品は、この絵のように繊細な線と、墨絵のような黒で塗りつぶした面で描かれ、空間を大胆に取る構成が多い。



アーサー王の死』の挿絵はウィリアム・モリスから剽窃呼ばわりされたが、ビアズレーは「彼(モリス)の作品はただ旧弊な代物を模倣したに過ぎないが、僕の作品は新鮮で独創性に溢れている」と言い返した。バーン・ジョーンズに合ったのと同じ頃、ビアズレーは古美術研究家エイマー・ヴァランスの紹介でウィリアム・モリスにも会うが、けんもほろろの扱いを受けたことがあり反感を持っていた。蔦のからまる飾りで挿絵を囲んでいる感じなどは、確かに雰囲気はウィリアム・モリスの作品によく似ているが、このような飾りはこの時代にはあふれていたので、モリスだけのものではない。



デザイン:ウィリアム・モリス、挿絵:バーン・ジョーンズ、ケルムスコット・プレスTHE ROMANCE OF SIR DEGREVANC


ビアズレーが亡くなるのは、1898年3月16日。夏目漱石がロンドンへ文部省留学生として、ドイツ・プロイセン号で横浜を発つのは1900年9月なので、漱石とビアズレーが直接顔を合わせることはなかった。ビアズレーの人気を目の当たりにすることは出来なかったが、全く知らなかった訳ではないのではないかと思われる。