●●村山知義装丁、池谷信三郎『望郷』(新潮社、大正14年)の装丁

池谷信三郎「望郷」は佐々木茂索が文芸部長を務める時事新報社1924年に公募し、菊池寛久米正雄里見紝が選者となった懸賞小説であり、翌年の元旦から連載が始まった。池谷は、独逸留学から帰国して最初の連載新聞小説「望郷」の挿絵を、帝国大学の1年先輩であり、独逸滞在中に半年間一緒に過ごした村山知義を指名した。村山にとっても初めての経験となる連載小説挿絵への挑戦であったが、最先端の美術運動である構成主義などの影響を受けた村山の挿絵は一般受けせず、途中降板させられてしまう。村山が担当した挿絵は48回、2月17日までで降板、以後は田中良が引き継いだ。


五十殿利治は「村山知義の新聞挿絵と池谷信三郎著「望郷」(「図書設計」2007年)に村山知義が担当した「望郷」挿絵について、次のように記している。


〈○村山知義の「望郷」挿絵について
 村山の回想では「望郷」の挿絵はベルリンの様子に詳しいということで、池谷から依頼があったので、とうぜんながら「私は勇躍して、その仕事をした」という(『演劇的自叙伝第二部』)。当時の村山は「マヴォ」のリーダーとして新興美術運動の先頭にたち、目覚ましい活動を続けていた。とくに連載直前には築地小劇場でカイザー「朝から夜中まで」が上演され、村山の舞台装置が大評判をよんだばかりであった。
 誌面では彼の挿絵に対する好意的な評価が掲載された。小説家岡田三郎の「新年随筆」であるが、まず新聞小説の挿絵への興味が述べられる。


 「新聞小説の挿絵を見てゐるのはかなり興味のあることだ。私はあまり、新聞の連載小説を読む方ではないが、挿絵だけは、丁寧に見てゐる。ことによると、小説を読むに費す時間よりもながく、挿絵を眺めてゐることがあるかも知れない。」(「新年随筆(五)」『時事新報』一九二五年一月一八日)
 岡田はその例として、加藤武雄「珠を抛つ」の蕗谷虹児中村武羅夫「緑の春」の太田三郎、さらに徳田秋声「蘇生」の伊東深水、さらに石井鶴三の名が挙げている。そこでいよいよ村山の名が出てくる。
「しかし、今のところ、私の興みを最もひきつつあるのは、「望郷」の村山知義氏の挿絵である。純構成派の絵は、あまり見もしないしまた、私の全興味をまた誘ふまでに至らないが、「望郷」の挿絵は、構成派とかなんとか、そんなやかましいことを云ふ必要のないほど文句なしの芸術味を私に感ぜさせてくれる。それだけ、或は、俗眼に入りやすい程度にまで、村山氏はその本来の立場を低下させ、特に難解を避けてゐるかも知れない
 はじめ私は、「望郷」の第一回を読んだきりだつたが、その後挿絵を見つづけてゐるうちに、挿絵がひとりでに何物をか私に語る、(略)ひかれて途中から読みだし今では、つひ毎日「望郷」を読むことになつてしまつた。これも、挿絵の徳である。」(「新年随筆(六)」一九二五年一月二一日)
 文字通り絶賛といっていいだろう。


 ところが、せっかくこのような発言があったにもかかわらず、事態はまるで逆に進むことになった。降板である。村山は賛否両論があり「ごうごうたる騒ぎとなった」が、「三十七回まで描いたところ、とうとう新聞社から、もっと判りいい絵を描いてくれ、というので、仕方なく画風を変えた」が、結局降板することになったという(『演劇的自叙伝 第二部』)。実際に、最後の回、四八回の挿絵をみると、それまでとは打って変わって、写実的な挿絵「涙する女」を描いたのが確認できる。にもかかわらず、打ち切りになった。


 まず、岡田の評価についてひとつだけ指摘できることがある。管見の限りでは、岡田が見た村山の挿絵がせいぜい一月中旬までのことであり、読者からの激しい抗議を招くような挿絵は少し遅れて発表されることになるように見受けられることである。
 第一回の挿絵を見てみよう(図1)。これがどうして降板劇につながると訝しくおもわれるのではないだろうか。街路灯を見つめる男、背後の壁など、いずれも全体として白と黒の平面による簡潔な描写となっている。写実的な挿絵とはいえないものの、「裏街の辻にしよんぼりと、忘れられたやうに点された街灯」を見上げ、コートに身を包んだ男が主人公の今村恵吉であり、舞台が文中にあるベルリンだということをたやすく理解できる。
 ところが、岡田の随筆連載が終わったくらいから、村山はいよいよ本格的に実験に手に染めるのである。




(図1)村山知義:挿絵、池谷信三郎「望郷」(「時事新報」、大正14年


○挿絵の実験―コラージュと写真
 最初の実験は一月二五日掲載分である(図2)。このとき連載で初めて印刷物によるコラージュ形式が導入された。小説の方はちょうど歌劇場でオペラ「道化師」上演中で、桜井の恋人ロッテが舞台に登場しているところを、妻その枝が観劇している場面である。これに合わせて挿絵には、まず大きくロッテというカタカナが見える。「テ」の文字は九〇度傾いている。ドイツ歌劇場[Deutsches] Opernhaus, Charlottenburgそして国立劇場Staatstheater、あるいは予約Abonnem[ent]や上演Vorstellu[ng]といった公演に関わる用語の断片が配置されている。
 こうした用法は村山にとっては自家薬籠中のものであった。すなわち、一九二三年帰国して最初の個展「村山知義の意識的構成主義的小品展覧会」(神田文房堂)の目録はまさに同じような印刷物のコラージュによって作成されたからである。そこにも、実物大のグロテスク人形でその名を知られた「エルナ・ピナー人形Erna Pinner-Puppe[n]」「四月の劇場April im Theat[er]」をはじめとして、劇場関係用語が読み取れる印刷物の断片が縦横に配されている。
 この「ロッテ」の挿絵には場面との明快な対応を読み取ることができるが、必ずしもそのようなものばかりではなかった。だからこそ読者からの苦情もあったはずである。

(図2)村山知義:挿絵、池谷信三郎「望郷」(「時事新報」、大正14年


 たとえば、一月三一日の回はその最たる例といえよう(図3)。画面は壁の内部のように三辺を描き、上部はドームのように円弧となっている。そして、その内部には二つ奇妙な形がみえる。村山一流の動物のしっぽのような線も登場している。
文章と照らし合わせるならば、左はテーブルで、その枝宛のロッテの手紙が置いてある。ただし「WB」の意味は不明。それから右。どうやら壁に掛かっているらしい。だとすれば、文中にある「彼女は起き上つて電灯を点けた」という灯りだろうか、それとも「スチームの余温もさめて切つて了つた凍い部屋」のスチームか、にわかには決しがたい。紐のようなものがあるので、電灯かもしれないが、どちらであるにせよ、この挿絵を一見したとき、読者はずいぶんとまどったに違いないのである。個展のカタログならば、とくに意味のない図案としてやりすごせるとしても、新聞小説に即した挿絵となれば、カットとは異なる役割がある。それに合致しているのかということが問題となるのである。

(図3)村山知義:挿絵、池谷信三郎「望郷」(「時事新報」、大正14年


 また同じコラージュでも、写真が使用されるのは、一月二八日が最初となる(図4)。場面はオペラ「道化師」が終わり、タクシーに乗って、今村と山田兄妹が帰る車内の会話が中心である。右の女性は、卯女子で、タクシーを降りた後、恵吉がほほえむのを見て、「彼女は何か知らんやはらかく抱き締められたやうな気がした」というところだろうか。
村山は中央に大きく、しかしひっくり返りそうで不安定にみえる斜めの位置にタクシーの写真を配して、「恵吉は自分乍ら可笑しい程喋り出した。山田は黙つて了つた」というように、結婚制度についての敬吉と京輔の見解の違い、そしてそれぞれの女性への関わりに違いから来る心理のずれを暗示しているようにもみえる。〉
と、連載を降板させられてしまう経緯を、挿絵としての適性と芸術性について分析をしている。

(図4)村山知義:挿絵、池谷信三郎「望郷」(「時事新報」、大正14年


 連載新聞小説『望郷」の挿絵担当を降板させられた後も、村山芸術に対する最大の理解者でもある池谷は1925年に結成された劇団心座に参加するなど、村山を信頼し続け、単行本になる時の装丁も村山を指名した。その後「オランダ人形」等の連載小説でも池谷は村山を指名し続けた。

村山知義:装丁、池谷信三郎『望郷』(新潮社、大正14年
池谷は、その後も小説や劇作で活躍するが、1931年肺結核で倒れ、一時回復するものの、1933(昭和8)年に33歳で死去した。



杉浦非水:装丁、杉浦翠子『愛しき歌人の群れ』(福永書店、昭和2年)非水が妻・翠子に捧げたアール・デコ風装丁の傑作。
  関東大震災から円本全集ブームが下火になる昭和5年くらいまでの10年にも満たない期間だが、非水の装丁は最も充実していてよい装丁が多く見られる。非水はイギリスへ遊学するが時期的にはアールデコの時代で、関東大震災の知らせを受けて急遽帰国する。
 イギリスでアールデコ様式を目の当たりにしたのかどうか、資料的には残されていないが、確かにイギリスから帰国した以後の非水の装丁は変わった。アールヌーボー様式からアールデコ様式へと大変身したのだ。
 そして装丁家として最も充実したこの時期に、妻・翠子の著作物に捧げた装丁に最高の傑作が誕生しているのは、オシドリ夫婦といわれていた由縁でもあろう。杉浦翠子『創作愛しき歌人の群』(福永書店、昭2)は『現代日本文学全集』(改造社、大正15年〜)と並んで、最も高く評価している大好きな装丁だ。




竹久夢二:装丁、岡本綺堂近松情話』(新潮社、昭和5年



恩地孝四郎:装丁、大木篤夫『危険信号』(アルス、昭和5年