誰も気にもしない神社の境内を横切る小さな橋だが…

西東京市都市伝説❸田無神社境内の石橋】
西東京市・田無神社へ初詣に行った人はみんなこの小さな橋を渡ったはずです。でもジャガバタやおみくじに気を取られ、この橋の存在を気に止めた人はほとんどいないのでは? 境内の真ん中を真横に横断するとは神をも恐れぬバチアタリもの! と思いませんか。神社の池に橋が架かっているは見るが、境内を川が横断しているのは珍しい。おまけに橋はあるが、現在、下を流れる川には水がない。ちょっと不思議な気がしてずっと気になっていた。

神社境内の中央を横切り、膝丈ほどの小さな欄干がある橋、神橋。



 いろいろ調べてみると、実はこの橋の下には神社が現在の場所に造営される以前の江戸時代・元禄九年(1696年)に掘削された、玉川上水から分水した田無用水が流れていたらしいんです。

橋の西側に祀られた水神宮と田無用水の立て札。


 西東京市は青梅を扇頂とする荒川と多摩川に挟まれた地域に広がる扇状地である武蔵野台地の中央部分に位置しているため、常に水不足に悩まされていたそうです。そこで作られたのがライフラインともなる田無用水だったわけです。

武蔵野段丘の地殻変動、1957年(貝塚爽平『東京の自然史』紀伊国屋書店、1979年)



さらに上流となる西に水路を追いかけると総持寺前に田無用水跡がある。今は遊歩道「やすらぎのこみち」になっている



総持寺南側の田無用水跡「やすらぎのこみち」



さらに西に進むと、田無郵便局裏に田無用水と田柄用水の分水点がある


 用水路は玉川上水の喜平橋付近から取水し、鈴木街道脇に沿いながら鈴木町交差点付近、橋場付近を通り、ここで2つに分岐し田無宿場内を通過、総持寺・田無神社を抜けて、町外れで石神井川に流れ込むという経路で作られた、行程二里半(9km)に及ぶ田無村民の命の水を運ぶ水路だったんです。

田無の用水(明治8年)(『田無市史』第4巻民俗編)部分



橋の下流に目をやると、東の小さな鳥居の脇の路地に田無用水の水路跡を見ることが出来る。


 そんな大切な水の通路だからこそ、神社の境内を横切るフトドキが許されていたんだと思いました。橋の名前も神橋と神々しい。
 地図を並べてみると、神社の境内を流れる田無用水の位置は、江戸時代の地図、明治時代の地図、昭和初期の地図もどれを見ても微動だにしていないのが分る。



江戸時代の地図にも田無用水は神社の中を流れていた。(田無村絵図面による短冊形地割の様子[文化9-1812年]『田無市史第4巻』平成6年より転載、部分)



田無神社と田無用水(「田無・小金井」明治13年、1/10000国土地理院



「青梅街道沿いの町並み図」(田無中央図書館編『田無の昔話その3』昭和54年部分、昭和初期頃を想定して聞き取りしながら制作したのか?