昭和初期には絵画にも盛んに取り入れられたガスタンクだが…

西東京市珍名所】西東京の市民ならだれでも知っている西武柳沢駅の改札を出るとすぐに、エレベータの脇から南に見える巨大な球体・ガスタンク(英語:gas holder)。異様な姿に圧倒されているのか、ガスタンクを讃える言葉を耳にしたことがない。






 でもちょっと考えてみてください、東京にガスタンクが一体何ヶ所くらいあるのかご存知ですか? 芦花公園、立川、小作、唐木田練馬高野台西武柳沢、南千住、高島平、羽村とわずか9箇所しかないんです。そのうちの一つが西東京にあるんですから、それだけでも十分に珍名所としての価値はあると思う。西東京を代表するランドマークであり、何よりも2つ並んだフォルムが何かを連想させてエキサイティングに美しすぎる〜、優しく暖かくなまめかッし〜い(フナッシー風)。
いっそ四国八十八箇所巡りならぬ東京ガスタンク九箇所巡りというのはいかがでしょうか。


 ガスタンクの歴史は古く「“高島易断”で有名な高島嘉右衛門は、県庁からガス灯の建設協力を頼まれ、「日本社中」を結成。上海でガス灯建設を行っていたフランス人技師アンリ・プレグラン (Henri A. Pelegrin)を招き、1870年(明治5年)9月に伊勢山の下の石炭倉庫跡 (現在、横浜市中区花咲町の本町小学校の地)にガス発生炉、ガスタンク等をもつ日本初 のガス工場を完成させた。石炭ガスをガス灯まで送る配管も整い、9月29日、神奈川県庁付近および大江橋から馬車道・本町通りまでの間に日本初のガス灯十数基がともされた。」と、明治維新の頃に登場しているんですね。

東京名所図会 銀座通り煉瓦造り


 昭和初期にはガスタンクが長谷川利行「タンク街道」(1930)や、堀野正雄「瓦斯・タンクに関する研究」(1930-31)、藤牧義夫「作品名なしデザイン画」など美術作品のモチーフとして登場してくるようになり、新しい都市の風景としても認められて定着してくる。

長谷川利行「タンク街道」(1930)



牧義夫「作品名なしデザイン画」(昭和5〜10年?)



堀野正雄「瓦斯・タンクに関する研究」(1930-31)


 そんな150年近い歴史を持つガスタンクだが、技術の進歩でこんなに巨大である必要がなくなった、とか、地下に埋蔵するなどで、次第に街中から姿を消しつつあるようだ。そんな美術運動起こすきっかけにもなった歴史的構造物が消えていくのを目の当たりにして、ただただ眺めるだけというのは、なんとも寂しくむなしい思いがする。