千川上水・坂上水車取水口、鎮守前水車

【しん散歩(12)…千川上水・葭(よし)窪橋・坂上水車取水口、柳沢4丁目】
・写真上=千川上水・葭(よし)窪橋、柳沢4丁目(昭和16年撮影)
・写真下=上と同じ場所を2018年9月1日撮影
 鉄道の駅近くの建造物は、多くの人の記憶に残っているものと思いますが、市境周辺になると、地元の人ですら興味を示さずほとんど知られていない建造物があります。
 今回紹介するのは、そんな市境を流れる千川上水に掛かっている「葭(よし)窪橋」ですが、ほとんどの市民がその存在すら知らないのではないかと思います。千川上水の南側は武蔵野市八幡町ですが、かつては「葭窪」と呼ばれていました。地名がつけられた頃はヨシの生えているような窪地だったのでしょう。千川上水の北側の柳沢4丁目あたりは、かつては「葭窪北台」と呼ばれていましたので、「葭窪橋」という橋名は地名の名残りなのでしょう。
 ここは、坂上水車の取水口でもあったようです。
 古い地名はその土地の地形の特徴や産業などを表していることが多く、方角や番地などの安易な地名に変えられてしまったのは、その土地の歴史を探るよすがを断たれてしまったようで残念に思います。




滝島 俊さんからFBにコメント 今は「保谷二小通り」と呼ばれている、西武柳沢駅南側の青梅街道から南に進む道は、昭和30年代まではこの橋の所までつながっていた様ですね。上柳沢の青面金剛庚申塔のある道です。武蔵野運動場が出来て、道が無くなっちゃったんでしょうか。

ガスタンクの西側神柳沢橋を渡って坂を登り、柳沢団地通りと交差して、過度に中華料理の店があって、さらに南進すると、三菱UFJ銀行の武蔵野運動公園にぶつかると、不自然に90度左折しますね。この左折がなく、直進できればちょうど葭窪橋戸言うことですね。確かに! 昭和31年の地図では、保谷第二小通りは三菱UFJのグランドで分断されずに、千川上水まで直線で繋がっていますね。


白黒写真の中央やや上に水面が写っていますが、ここが、坂上水車の取水口らしいです。


滝島 俊 やはりそこでしたか。そこはちょっとこんもりした雑木林ですよね。塀の内側あたりを通って進んでいたと想像していました。北東隣のお宅も、庭に用水路があるような不思議な感じの家です。


保谷村(現・西東京市)には、明治40年には、2箇所に水車がありました。一基は保谷村大字上保谷新田字鎮守290番地と、もう一基は保谷村大字上保谷新田字坂上57番地です。前にアップした昭和31年の地図にも、坂上57番地と記載されています。さらに年代を遡って昭和12年の地図には、水車の記号が記されています。水車のための用水路も葭窪橋あたりまで記されています。地図は、昭和12年



滝島 俊 両方とも平井週作さんが関係した伸銅工場に関係する水車で、坂上水車は現在の岩崎さんの駐車場あたりと思われます。


平井家は、ここで1849年(嘉永2)に水車稼を企業し、1947年(昭和22)に売却。その後、この土地は4度ほど転売を繰り返し、現在は、土地所有者が市内在住ではないので(あきるの市)、不動産業者が所有しているのかもしれませんね。


こいこい橋の北側の四角の一角が水車があった場所ですが、水車は、この一角の中央を西から東に流れる水路に掛けてあったようですので、千川上水には面していなかったようです。写真は坂上の水車場(1941年撮影)。



この「こいこい橋」がどこにあるのか、千川上水べりを歩いてみましたがなかなか見つかりませんでした。が、地図上に見つけました。この橋の北側にはひょうたん公園があるらしいので、まず「ひょうたん公園に行ってみました。


これが新柳沢団地にあるひょうたん公園のようです。ここから南に進んで千川上水にぶつかるところにあるのが「こいこい橋」ということなので、南進してみました。


これが「こいこい橋」なのか。橋の名前はどこにも記されていませんが、きっとこれなんでしょう。さらにこの橋の北東に「坂上水車」があったというのだから…。



この右側の建物があるあたりが、坂上水車場があったところなのか?


建物に近づいてみます。この一角が坂上水車があったところなんだ! やっと見つけました。


路地を北進してみます。右に凹んでいるあたりが水車への水路があったあたりかな?


ちょっと振り返りながら、緑があふれているところを東に曲がります。


水車場跡の一角の北側の路地です。東に進みます。この先右折して南に進みしか進路がありません。


坂上水車場跡の北側の路地の突き当たりを右折して、東側の路地に向かいます。


この辺が水車で使用した水の出口があるあたりですが、そんな痕跡はどこにも見当たりません。奥のほうには千川上水が見えます。


これで、水車場を囲む路地を一回りしました。千川上水脇の道に出て、西側をみています。奥のほうには、こいこい橋の脇の建物が見えます。水車場跡は10軒ほどの民家などに細分化されて分譲されているようです。


道路と生け垣の間に1mくらいの空間があるのが、水車のための用水路跡のようです。写真左の家のご主人が出てきて、この大きな石が並んでいるところが水車のために引いた水路の跡です、と教えてくれました。写真は蘆窪橋の北から50mほど東から東を望む。千川は写真右を流れています。


滝島 俊 このお宅は、前に私が書いた庭に用水路跡のようなものが有るお宅ですね。

そうですね、三菱グランドの脇から千川上水に出てくるところです。

これはこいこい橋のあたりから西側をみたところですが、やはり、道路と塀の間には1mほどの空間があります。これが、水路跡のようですね。平井家が毎年、知事あてに「公有土地水面使用願」を提出していたようですので、水路跡は都有地のようですね。


これは水車を所有している平井家が、知事へ提出した「公有土地水面使用願」控(昭和19年〈1944〉)です。「水車営業地五七番地」から道路の北側に水路が引かれているのがわかります。


千川上水は、1696年(元禄9)に開削された。その目的は、将軍が御成りになる施設である、小石川・白山御殿、本郷・湯島聖堂、上野・寛永寺浅草寺などへの給水でした。明治になってからは、紙幣局など下流での使用があったため、水量も確保されていたようです。


1657年(明暦3)の大火により、江戸市中の周辺地域の発展が急激に進み、それまでの玉川上水神田上水の両上水の未給水地域への給水のために、さらに四上水が開削されました。1959年(万治2)亀有(本所)上水、1660年(万治3年)青山上水、1664年(寛文4)三田上水、1969年(元禄9)千川上水がその四上水です。千川上水の普請は、和泉屋太兵衛と播磨屋徳兵衛、加藤屋善九郎、中嶋屋与一郎が請負って、設計は河村瑞賢によって作られたという説もあります。将軍様の御成りになる施設への給水の他にも、神田、下谷、浅草にかけての大名屋敷や寺社、町屋の飲料水としても使用されました。1702年(元禄15)には老中柳沢吉保が開いた「六義園」の泉水にも使用された。


保谷新田には二つの水車場があったが、もう一つの水車場は、1818年(文政1)に平井氏が起業した、保谷村大字上保谷新田字鎮守290番地にあったようだ。現在の住所に置き換えるとどの辺なのか?。まずは鎮守290番地を特定しよう。地図は明治39年測図の上保谷新田台辺りです。中央やや左上の神社が、阿波洲神社です。中央の交差点が柳橋交差点。神社と交差点の間にある太陽のようなマークは「工場、鉄工所」。もしかしてこれが、明治44年(1911)に北多摩軍内で一番の生産額を達成した鎮守前の水車工場なのか? 工場の辺りから左下の境橋に向かって二重の波線が描かれていますが、これが「水路・施設・水制」の記号で、ここでは水路ですね。


これは前掲地図と同じ上保谷新田の昭和14年測図です。太陽のような記号の工場がなくなり、煙突マークの工場・紀長伸銅所が出来ている。水路も途中で切れているが、水路がなくなってしまったのか?


これは前掲の地図と同じ場所で、昭和31年測図の上保谷新田です。一度消えてしまったかと思った工場のところには、南機繊維工場に代わっている。煙突マークの紀長伸銅所は太陽のようなマーク・工場に代わった。ここだけ番地が飛んでいるが、285、288、◯、293、294と続いているので、この工場が「290番地」のかつて平井氏が所有していたという水車ではないだろうか?


これが前掲地図と同じ場所で、平成9年の柳橋交差点付近の地図です。「390番地」紀長伸銅所の辺りは日産プリンス武蔵野営業所になっています。「285番地」南機繊維工場があったところは、JA東京みらい柳橋支店と住宅地に変わってしまっています。今、足を運んでも、恐らくは水車があった痕跡などは全く見つからないと思います。


鎮守前水車があったのは、日産プリンス武蔵野営業所のところなんですが、何か痕跡が残っていないものかと、この暑い中探し回りましたが何も見つかりませんでした。釣りならば「ボウズ」ですね。ま、こんな日もあるさ! 写真は柳橋交差点日産プリンス武蔵野営業所。



明治39年地図に記されている水車と、昭和31年の地図に記されている水車が、どうしても同じ水車には思えないんですが…。画像は昭和40年「保谷土地宝典」ですが、ここでは、「290番地」の1〜19が昭和31年の地図の水車場の位置とほぼ一致しますが、明治39年の地図に描かれている水路とは全く違う場所のように思えます。「290番地」は、ほとんどが、現在の日産プリンスの敷地とかぶっているようです。


平井家から東京府知事昭和12年(1937)に提出された「290番地」の鎮守前水車場及び水路の「公有土地水面使用願控」です。


やはり、大正6年には、水車場は2箇所でしたが、水車は3基あったみたいですね。坂上水車場(奥住第二工場10馬力)、鎮守前水車場(三谷黄銅板圧延工場20馬力、三谷第二溶鉱場12+6馬力)。


滝島 俊 一時期水車は3基あったんですね。ありがとうございます。
奥住第二工場は明治30年4月の創業と書かれている資料もあり、26馬力程度あった時もあるようです。本題の三谷工場ですが、創業が明治26年12月に3馬力からスタートし、明治30年に改良し、明治34年時には25馬力になっている様です。1基での最大出力はこれぐらいでしょうか。
その間、三谷工場内では黄銅板の圧延工場などが増設され、それ用の水車が増設されたんでしょうかね? 蒸気による溶鉱場も併設されていたようです。 だとすると工場内に第二、第三の水路が出来ていたわけも理解できます。


奥住第二工場(坂上水車)は、昭和2年頃末頃の全国工業通覧から姿を消してしまったが、昭和24年(1949)に再建される。が、技術革新に遅れ昭和47年(1972)に廃業となったようです。


鎮守前水車・三谷黄銅板圧延工場は、大正7年(1918)に榎本黄銅板工場代わっています。


これは鎮守前水車場・三谷黄銅板圧延工場20馬力の平面図です。昭和7年(1932)に提出した「公有土地水面使用願」(上保谷新田弐百九十番地)に添付された図面です。


田無の下田家の水車平面図(昭和6年)です。明治22年には一丈九尺(5・7m)と、田無にあった7基の水車の中では最大ですが、鎮守前水車は、それにも増して大きいのではないかと推察します。

前図と同じ水車なのかどうかはわかりませんが、ホンケの水車「搗杵の見える水車場内部」(田無本町、昭和36年)。


千川上水に「親和橋」(「保谷町広報」昭和34年11月)が出来た、という記事を見つけました。この親和橋は橋の名前ではなく、保谷・武蔵野を結ぶ相互に仲良く協力して建造した橋、というだけで、橋名は別にあったのか? 千川上水にこの名の橋は見つかりませんでした。


滝島 俊さんからのコメント…… 坂上水車があった所のそばに架かっている、通称?「こいこい橋」の事かも知れませんね。 こいこい橋という名前も意味深ですよね。


ひらがなで「こいこい橋」と命名したのが意味深ですね。「来い来い」とか「恋来い」とか、読む人にとって、勝手な解釈が成り立ちますね。案外「親和橋」改め「こいこい橋」かもしれませんね。武蔵野からも来い、保谷からも来いで「来い来い」と。


滝島 俊さんのコメント…… 保谷町側、武蔵野市側から行き来するという意味で、「こっち来い、あっち来い」みたいな意味なんでしょうね。
この写真は「こいこい橋」で間違いないと思います。
下の写真は保谷町から南東方向を写したもので、武蔵野市八幡町4丁目の住宅地が写されてます。橋の向こうの家の屋根には中島飛行機の大煙突が写されてますね。武蔵野北高のテニスコートの南側にあったものです。左側の家の屋根の向こうには、現在の「八幡町いこいの広場」にあった給水塔が見えます。八幡町4丁目には「親和ふれあい花壇」という公園もあり、「親和」という言葉は以前からこの地区で使われていた様ですね。千川上水武蔵野市側の五日市街道のバイパスは、この時はまだ出来ていなかったようです。


すごい、中島飛行機の煙突でしたか! とすると、保谷側は、平井家の水車があった場所ですね。写真は武蔵野市側から撮影した、現在のこいこい橋。


これが写真についていた文章(「保谷町広報」昭和34年11月)ですが、肝心の場所がはっきり書いていないんですね。関前親和会とありましたので、関前橋あたりかなと思いましたが、武蔵野市「関前」は、千川上水取水点から武蔵野大学あたりまでの東側なので、結局、市内の千川上水全域が「親和橋」の場所の候補になってしまいました。


滝島 俊さんからのコメント…… この文を拝見すると、保谷町側(現柳沢3丁目地域)の「千川上水親和会」という町会と、武蔵野市側の「関前新和会」というのがあり、(「しんわ」の字が異なる)記事の見出しは「新和橋」となっていますね。ことの発端は保谷町側の「親和会」の様ですが、最終的には両自治体の協力によりできたと。。。
しかも、二つも出来たと書いてありますが、そうすると、もう一つはどこでしょうね?


人物ばかりがごちゃごちゃ出てきてわかりづらい文章ですね、4W1Hがない! 私は、橋は一つですが、「親和会・新和会の二つの思いが繋がって愛の架け橋ともいうべき親和橋が出来た」という意味なのかなと勝手に解釈していましたが?


滝島 俊さんからのコメント…… 本当ですね。よく読むと、この記事たった2つの文で出来てます。(句点が2つしかない) 後半の文は、小学生の遠足の作文みたいで、ダラダラと長いが故に内容が伝わりづらいんでしょうね。 いつ、何処にが書かれてませんが、「こいこい橋」からさらに上流50mぐらいにもう一つ橋があった様です。
現在は残っていないこの橋が2つ目の橋の事かも知れません。


武蔵野市の市報などが西東京市の図書館にないかな、と検索してみましたが、見つかりませんでした。武蔵野市の図書館まで行かないとダメかな? 同じ橋の話をどのように記事にしているのか見つかれば面白いと思うのですが…。