徳田秋声『縮図』初版と第3版で挿絵を入れ替え?

内田巖:画、徳田秋声『縮図』(小山書店、昭和21年)初版本を持ってはいたが、古書市に第三版が100円で並んでいたので、安さに釣られてつい購入してしまった。

 長編小説『縮図』は、秋声最晩年の1941年(昭和16年)6月28日から9月15日まで、都新聞に連載された。挿絵は内田巌。白山で置屋を営む元芸者の小林政子をモデルに、芸妓の世界を描いていたため、太平洋戦争直前の時局柄に芸者の行状を臆面もなく扱うとは好ましくないという、内閣情報局の干渉を受け、第80回で連載を中絶。秋声はその二年後に病没したため、この未完の長編は絶筆となった。

内田巖:画、徳田秋声『縮図』新聞連載第01回(都新聞、昭和16年6月28日)



内田巖:画、徳田秋声『縮図』新聞連載第80回最終回(都新聞、昭和16年6月28日)


 秋声没後の1944年(昭和19年)11月、小山書店により単行本化が進められたが、東京の空襲により、製本の寸前で未発表部分の原稿とともに消失。幸い見本刷の1冊が疎開してあったため、戦後の1946年(昭和21年)7月10日、未発表の「裏木戸」第14節の一部から第16節までを加えた形で刊行された。

内田巖:装画、徳田秋声『縮図』〔小山書店、昭和21年)


ところが、偶然に入手したこの2冊の『縮図』だが、なんと、初版と第3版では掲載されている挿絵が全て入れ替えてあることを発見した。
 下記の挿絵2点は、それぞれの版の最初に登場してくる挿絵だが、よく似ているが、全く別の挿絵だ。

内田巖:画、徳田秋声『縮図』初版挿絵1〔小山書店、昭和21年)

内田巖:画、徳田秋声『縮図』三版挿絵1〔小山書店、昭和22年)


 一体なぜこのようなことをしたのだろうか? 
 私が推察するには、出版統制が厳しく紙の配給が充分ではなく、挿絵を掲載する分の洋紙を入手できなかったのではないだろうか。和紙は統制品ではなかったので、挿絵の頁は印刷には適さない和紙が使われていた。和紙の繊維が均一でないため濃く出る部分やかすれる部分などがあり、印刷物のクオリティとしては化なり劣悪だ。

内田巖:画、徳田秋声『縮図』初版挿絵2〔小山書店、昭和21年)。和紙の紙質が悪くムラがあり、薄い部分から黒いバックが透けて見える部分がある。

内田巖:画、徳田秋声『縮図』三版挿絵2〔小山書店、昭和22年)


 それでも、新聞連載当時80点あったの挿絵は初版にわずか8点しか掲載されなかった。残り72点もなんとか掲載したいと思い、第2版では挿絵を全て入れ替えて掲載したのではないだろうか。こうすればとりあえず16点の挿絵を掲載することが出来る、と考えての窮地に追いやられて考えついた究極の選択肢だったのではないだろうか。

内田巖:画、徳田秋声『縮図』初版挿絵3〔小山書店、昭和21年)

内田巖:画、徳田秋声『縮図』三版挿絵3〔小山書店、昭和22年)


小説をひととおり読んで、音羽信子がブルーリボン賞を受賞した新藤兼人監督「縮図」もDVDで観たが、検閲が入る要因はあまり見当たらない。芸者・銀子が主役だが、映画にはこれといったぬれ場もなかった。挿絵全てを見たわけではないが、この本に掲載されている挿絵を見る限りでは、「芸者の行状を臆面もなく扱うとは好ましくない」とはいうものの連載中断は理解し難い。

内田巖:画、徳田秋声『縮図』初版挿絵4〔小山書店、昭和21年)

内田巖:画、徳田秋声『縮図』三版挿絵4〔小山書店、昭和22年)




内田巖:画、徳田秋声『縮図』初版挿絵5〔小山書店、昭和21年)

内田巖:画、徳田秋声『縮図』三版挿絵5〔小山書店、昭和22年)



明治の文芸評論家・内田櫓庵を父に持つ内田巌は、幼いころから父から文章の指導を受け、文才にも長けていた。そんな巖は、1936年、挙国一致体勢の推進をはかる国家による美術界統制ともいうべき帝展美術院改組に対抗し、猪熊弦一郎小磯良平らと新制作派協会の立ち上げに参加、その理論的支柱として活躍したという経緯があり、そんな事も連載中断の要因の一つだったのではなかろうかと推察する。

内田巖:画、徳田秋声『縮図』初版挿絵6〔小山書店、昭和21年)

内田巖:画、徳田秋声『縮図』三版挿絵6〔小山書店、昭和22年)



内田巖:画、徳田秋声『縮図』初版挿絵7〔小山書店、昭和21年)

内田巖:画、徳田秋声『縮図』三版挿絵7〔小山書店、昭和22年)



内田巖:画、徳田秋声『縮図』初版挿絵8〔小山書店、昭和21年)、紙の繊維が絵の一部のように濃い線になっている。

内田巖:画、徳田秋声『縮図』三版挿絵8〔小山書店、昭和22年)