池部三山と鳥居素川の骨折りで明治40年4月、夏目漱石が朝日新聞入社した。以後、漱石は「虞美人草」「坑夫」「三四郎」「門」「永日小品」「行人」「こころ」「みちくさ」など次々に連載を発表し50歳のときに「明暗」を絶筆として亡くなった。



名取春仙:画、夏目漱石「明暗」(東京朝日新聞、大正5年)、「明暗」の挿絵には落款がなく誰が描いたものであるのかが分からなかったが、第38回の挿絵に「NATORI」の署名があり春仙が描いたことが判明した。



漱石の入社を切掛に新聞小説の刷新が行われ、挿絵家も新人が採用されることになった。通俗物は右田年英が引き続き担当したが、純文芸ものには東京朝日新聞では名取春仙が、大阪朝日新聞には野田九甫が採用された。


春仙は漱石が入社した明治40年に入社し、二本立ての新聞小説のうち通俗的な時代小説ではなく、純文学的な作品を担当することになる。漱石の第一作「虞美人草」(明治40年6月〜10月)や二葉亭四迷「平凡」(40年10月〜12月)には題字の飾りカットを描くに過ぎなかったが、島崎藤村「春」(41年4月7日~8月19日)からは、春仙の持ち味を出した挿絵風コマ絵ともいうべき作品が登場した。

漱石三四郎」(明治41年9月1日〜12月29日)に続く森田草平「煤煙」では春仙の作風はほぼ確立していく。



春仙は、その後も泉鏡花「白鷺」、谷崎潤一郎「鬼の面」、長塚節「土」など朝日新聞連載小説の代表作のほとんどを描き、新聞小説挿絵に新風を吹き込んだ。



名取春仙:画、泉鏡花「白鷺」(朝日新聞明治42年


国民新聞には川端龍子が、平民新聞には平福百穂が採用され新聞小説挿絵は新しさを打ち出そうという気運に充ちていたが、洋画の様式を取り入れた春仙のコマ絵には他の追随を許さないモダンさに溢れていた。(つづく)