入手したばかりの「さしゑ」第4号(挿美会、昭和31年6月)に、田代光が「挿絵の技法」という文章を書いているので、転載させてもらおう。いずれ田代光については「粋美挿画」で特集を組んで紹介したいと思っている。

序論に代えて
挿絵が新しい意識のもとで考えるようになったのは最近のことです。それまでは、小説の絵解ぐらいに思われていたようです。小説を面白く読ませる為に読者に解りやすく親しみやすく手引きする役目が「さしえ」の全部だったことは事実です。挿絵というものはそういうものであると思われ一般化されて来ました。出版社も小説家もさしえ画家も、したがって読者もそう思い思わされてきたのです。


 しかしそんな時代の中にも本気で挿絵を考えていた人は、その程度では満足出来るはずはなく、もっと本質的に考えもし、仕事の上にも現わしてきました。その為にはかなりの勇気が必要だったようです。北斎が馬琴と喧嘩をした話は有名なものです。梶田半古、鏑木清方、石井鶴三、木村荘八小村雪岱などの大先輩はしっかりした考えの下に、立派な仕事をしてきた方々です。しかし、残念なことはこれ等の人達の業績は個人としての偉業にとどまってしまい、さしえ画壇そのものは旧態のまゝだったことです。


世の中は流れる水のように変わります。挿絵に対する考え方も同じように変わってきました。─さしえとはなんぞや─ということが出版美術家の間で問題にされるようになって来ました。私は挿絵画家の開眼であり、一歩前進だと考えています。民主主義が本当に生かされるためには、国民が民主主義を理解しなくてはなりません。さしえも同じことで、画壇というおおきな人格の眼覚によって始めて挿絵芸術の向上が約束されるということになります。挿絵が一面で軽視されがちであったのは、見る物より読む物を優先と考えられてきたことにもよります。いづれにしろ、挿絵画家の自覚にまつ以外に、さしえの向上は望めません。
 そこでこれから、具体的に挿絵の問題にふれてみます。


 挿絵は絵画です。当然のことですが、うっかりすると忘れ勝ちになります。もっと突込んでいえば、挿絵は芸術です。ということになります。まづ挿絵は絵画であるということを忘れないでください。絵画で大切なことは個性的であるということです。物を正確に写すだけでは絵画とはいえません。


 絵画である為には、描く人の物の見方表現のしかたがあるはずです。その上で内容が深く高いものを芸術といってさしつかえないと思います。
 私は自分で芸術家ですと自称したことは一度もありません。芸術は人間の至上の物ですから簡単に近づける境地ではありません。だから芸術は一般的でないという見方は当たりません。ダイヤモンドと硝子玉の違いはだれにもわかりますし、ドンコザックと街の合唱団の相違には説明はいりません。ディズニーの記録映画が面白く観られることも考えられることです。(つづく)