「粋美挿画」VOL.2から、「素晴らしいJPALの先輩たち」(仮題,*JPAL=Japan Publication Artist League)として、80名程の日本出版美術家連盟物故会員のプロフィールと代表作を紹介する頁を企画した。最初は、

高畠華宵(1888〈明治21〉-1966〈昭和41〉年)享年78歳
椛島勝一(1888〈明治21〉-1965〈昭和40〉年)享年77歳
山口将吉郎(1896〈明治29〉〜1972〈昭和47〉年)享年76歳
を予定している。

10日間くらい略歴作りをやってみて、その大変さを痛感している所へ、長谷川邦夫『ニッポン漫画家名鑑 漫画家500人のデータブック』(データハウス、1994年)を見つけ、一人の執筆者による渾身の作であることを知り脱帽させられた。



長谷川邦夫『ニッポン漫画家名鑑 漫画家500人のデータブック』(データハウス、1994年)


偶然にも今回取り上げる予定の椛島勝一が掲載されているので、覗いてみよう。


「正統的なペン画家として名高いが、秀れた漫画作品も残している。明治初期に商人の息子として生まれたが、強度のどもり、非社交的性格から商業学校を中退し、一室にこもり語学に夢中になり、独習で英語とドイツ語をものにした。


 二十四歳のとき、父親の死と弟の皓々への進学を期に、背水の陣で知人を頼りに九州から上京した。画家を目指していたわけではなかったが、十代に趣味で描いたペンによる海洋画の経験を生かし、第一次大戦の影響下によって出版される各種の雑誌の表紙絵や挿絵を描いた。


 それらの雑誌は「飛行少年」「海国少年」といったもので“軍事画”が中心であった。しかしその後、博文館の雑誌「新趣味」に探偵小説の挿絵を描く。そして大震災の年、大正十二年に朝日新聞社がそうかんする「アサヒグラフ」に、マンガ『正チャンの冒険』を発表した。そのスタイルはいわゆるアメリカのコミック・ストリップ風の連続絵物語であった。


 原作は織田小星で、椛島はこれまでのペン画の画風とは全く異なった“図案風”様式的なマンガを描いたのである。震災のため「アサヒグラフ」は週刊になり、『正チャンの冒険』は「朝日新聞」本紙に二年六ヶ月連載され人気を博した。当時、絵画はほとんど有名作家に師事して修業するのが常識であったが、ユニークでモダンなマンガやペン画を全く独学で一流の仕事に発展させた椛島の才能は稀にみるものとして多くのファンを持った。

【データ】▶九州出身▶一八八六年(明治19)七月生まれ」
とある。
 漫画家としての部分だけに絞って、約750字で解説したのだろう。



椛島勝一:画、織田小星『正チャンの冒険』(小学館、2003年)


「正チャン帽」といって主人公がかぶる帽子が大流行するほどの人気漫画だったようだが、私が知っている、船や飛行機などのペン画に長け「船の樺島」と称され、雑誌などの挿絵特集や「少年倶楽部」特集にはなくてはならない存在だった椛島ではない。そして、山中峯太郎の軍事冒険小説「敵中横断三百里」、「亜細亜の曙」、「大東の鉄人」、や海野十三「浮かぶ飛行島」などの空想科学小説、南洋一郎「吼える密林」などの密林小説に細密なペン画による挿絵で知られる椛島像ではなかった。



椛島勝一:装丁、山中峯太郎『敵中横断三百里』(大日本雄弁会講談社昭和6年


椛島勝一:装丁、山中峯太郎『敵中横断三百里』(大日本雄弁会講談社昭和6年
独学でここまで描くとは、やはり、類い稀な才能の持ち主だ。



椛島勝一:画「帆船」(「少年倶楽部」昭和29年)