挿絵:伊東深水、武者小路実篤『母と子』(東京朝日新聞、昭和2年4月)

大正13年高畠華宵(36歳)と講談社との間で画料問題がこじれ、いわゆる「華宵事件」が起こる。その後華宵は講談社の雑誌への執筆を断り、「日本少年」(実業之日本社)に執筆を開始。多くの少年読者が華宵目当てに「少年倶楽部」から 「日本少年」へと移ったという。この事件の発端は華宵よりも深水の画料の方が高かったことが原因だったと言われる。


この新聞小説を描いた頃の伊東深水(1898-1972 本名は一はじめ)はというと、
1898年‐2月4日、東京深川西森下町の神明宮門前に生まれる
1907年‐小学校3年で中退、以後看板屋に奉公し住み込みで働く
1908年‐職工となり深川東大工町の東京印刷株式会社(白河4−9)で、活字工になる。日本画家の中山秋湖に日本画を習う
1911年‐13歳の時に縁あって鏑木清方師事し、早くから頭角を現す。「深水」の号を与えられ、夜間学校で苦学しながらも精進する
1912年‐第12回巽画会展に『のどか』が初入選
1913年‐巽たつみ画会展出品作「のどか」が1等褒状
1914年‐再興第1回院展に『桟敷の女』が入選、東京印刷を退社する
1915年‐17歳、第9回文展に『十六の女』が初入選
1916年‐新版画運動に参加、木版画「対鏡ついきょう」を制作。東京日日新聞などに挿絵を描く
1919年‐好子と結婚し長男と二男をもうける
1922年‐平和記念東京博覧会で『指』が2等銀牌
1927年‐大井町に深水画塾設立

…と、院展文展など多くの展覧会で受賞するなど活躍し、勢いのある時期の挿絵である。



挿絵:伊東深水武者小路実篤『母と子』(東京朝日新聞昭和2年4月)



挿絵:伊東深水武者小路実篤『母と子』(東京朝日新聞昭和2年4月)



挿絵:伊東深水武者小路実篤『母と子』(東京朝日新聞昭和2年4月)